2025日 主の変容

                 ルカ福音書9章28~36節 「 希望 」 

9:28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。 9:32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。 9:33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 9:34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 9:35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 9:36 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

  今日は主の変容、変容主日です。来週から四旬節、受難節に入っていきます。キリスト教信仰には不思議なバランスがあります。自分は、恵まれたものであり、自分が神さまを選んだのではなく、神さまから選ばれたものであることを信じます。しかし、同時に自分は罪深いものであり、弱いものであることを告白します。わたしたちは、信仰を持ち崩すとき、このバランスを持ち崩します。時に傲慢になり、自分こそは強く、正しい存在であると思いすぎてしまう。しかし時には、自分など生きていても仕方ない存在であり、何の価値もない人間だと思う。わたしたちはその両極端を激しく行き来します。
 この山上の変容という出来事の目撃者として、弟子の中でも、3人の弟子だけが選ばれます。なぜ、3人だけなのだろうと思います。他の弟子にも見せてあげればよいのにと思います。弟子ばかりではない、わたしたちにも光り輝くイエスさまの姿を見せてくれたらよいのにと思います。しかし、私たちがそんな栄光の姿を直接見たら、途端にバランスを崩すでしょう。自分たちは選ばれた特別な光の戦士、そんな思いに乗っ取られるでしょう。実際、この3人はこの直後にバランスを崩します。9章の後半にいくと、46節以降、弟子の中でだれが一番偉いか議論し始めます。ヨハネは、イエスさまの名前を勝手に使っている人がいて、やめさせようとしたとイエスさまに報告すると、イエスさまに「逆らわないものは味方だ」と言われています。その次には、イエスさまを歓迎しないサマリア人を見て、ヨハネとヤコブが「天から火を降らせて彼らを焼き滅ぼしましょうか」といい、イエスさまに戒められる、という話が出てきます。
 人はたんに恵まれている、というだけで、自分が偉いものになった気分になります。自分は本物で、他の人を見下す心が生まれる。本当に努力して実力をつけた人でも、やはりそれは恵まれているんだと思います。才能に恵まれ、環境に恵まれ、周りの人に恵まれている。自分の実力だから、どこでも通用すると思っていると、少し環境が変わっただけで、全然うまくいかなくなることがあります。ルカでははっきりと書かれていませんが、他の福音書を読むと、イエスさまがこの3人の弟子たちに、今見たことは十字架の出来事が起こるまで、誰にも話さないように戒めています。自分も弱いものであり、自分も罪人であることを忘れた、恵まれただけのキリスト者は人一倍危うい存在です。
 では逆に、危うさをはらみながらも、なぜこの3人には、イエスさまの光り輝く姿を見せたのだろうと思います。それはおそらく、教会の暦の通り、変容の出来事を境にして、イエスさまはエルサレムへ向かい、受難の道を歩むからです。闇の道を歩むからです。
 わたしたちの人生も、いつも明るい道を歩んでいるわけではありません。辛い時もあります。なぜかうまくいかないことがあります。
 今は宣教の難しい時代だといわれています。でも、私の心の中にあることがあります。それは、戦後に起こったキリスト教ブームです。ブームというのは、危ういもので、やがて終わるものでもありますし、たんに流行に乗っかっただけの人も集まってきます。でも、全員は残らなくても、そのブームの中で集い、その中で教会に根を張り、戦後の教会を支えてきた人がそこから生まれたのも事実です。その戦後のキリスト教ブームが起こる直前は、上昇の兆しがあったわけではなく、むしろ教会に逆風が吹いていました。敵の宗教だといわれ、迫害さえあったといいます。
 
十字架の次に復活が起こります。闇の深いところに光がともります。だからどんなに闇が深くなっても、希望を失ってはいけません。
 弟子たちは十字架の時に逃げながらも、鍵を閉めながらも、同じ部屋に集っていました。弟子の群れを離れ、エマオに向かう二人も、なんだか心に引っかかりを覚えて、エルサレムの出来事について話し合っていたといいます。そこに復活のイエスさまが現れます。わたしたち常に希望の光が心の中にあるわけではないかもしれません。信仰の光が常に強く灯っているわけではないのかもしれません。でも、一度は目にした光が、わたしたちをあきらめの悪いものにしてくれます。そして、そこから本当の希望が与えられます。今は、決して良い時代ではありませんが、あきらめの悪いものでありましょう。神さまからの希望を信じましょう。


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