202523日 四旬節第3主日

                 ルカ福音書13章1~9節 「 園丁のこだわり 」 

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。13:5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

   皆さん、こんにちは。今回このような機会が与えられ感謝しています。本日は、全道一区の協働招聘・宣教が2024年4月から始まったことがきっかけで、吉田先生が旭川教会に奉仕へ行かれています。そうした機会を捉え、本日は信徒で守っていく礼拝を行うことを、昨年の役員会で決めました。それを受けて、私が奉仕をすることにしました。宜しくお願い致します。
 本日の御言葉の箇所は、の国の本質を述べています。ここには二つの記事があり、まず前の章の最後の話を聞いた人々が、当時の虐殺事件をイエス様に報告した所から最初の記事が始まります。人々は、この事件で殺された者や、シロアムの塔が突然倒れて事故死した者は、特別に罪深かったと考えていたのだと思います。
 しかし、イエス様は「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」と仰いました。人々の間では、「人の不幸は、その人の罪の結果だ」という考えが長らくありました。そのように考える人達に向け、イエス様は神の国は、人々が悔い改めの実を結ぶようになるため、「忍耐を持って手入れする方がおられるところです。」と言って、次の譬え話を話されたのです。ある人が、ブドウ園にいちじくの木を植えておいたというところから始まっています。ブドウは、当時のイスラエルでは多く栽培されていた農作物です。ブドウは、まず生のまま食べるために、そして干しブドウにして保存用の食べ物となりました。さらに、ブドウ酒にもなりました。そのように多くの役立つ作物がブドウでした。また、イスラエルのような乾燥地に適しているのがブドウでした。ということで、当時、多くのブドウ園が存在していました。イエス様は、人々に身近な素材を使って、たとえ話をなさいました。ただ、わかりやすく話すために、たとえ話を用いたわけではありません。人々が納得できるよう想像し、いつもお話されていたのだと思います。
 ブドウ園に、いちじくの木を植えておいたと言います。ブドウ園なのに、いちじくの木というと違和感があるかもしれませんが、決して変なことではなかったそうです。というより、実際にそのようなことはよく起こっていたそうです。当時のイスラエルでは、ブドウの栽培方法として現在のように棚を作って、そこに枝を這わせるのではなく、地面にそのまま這わせることも多かったのです。それは、イスラエルの多くが乾燥地帯であることから、可能でした。また、地面に這わせるだけでなく、立木に枝を絡ませることもしたそうで、その立木として、いちじくの木が植えられることもありました。いちじくは、甘い実がなるので、一石二鳥でした。
 さて、こうしてブドウ園の主人は、ブドウ園にいちじくの木を植えました。ところが、このいちじくの木が実を結びません。3年も実を探して来ているのに、葉ばかりが茂って、全然実を結びません。そこでブドウ園の主人は園丁に言いました。
 「もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」と。
 これは至極(しごく)全うな話です。いちじくの木が実を結ばなかったのなら、もう不要なものです。さっさと切り倒して、別のいちじくの木を植えれば良い、悩む必要はない、それだけの話です。
 しかし、ここから展開が変わっていきます。主人に「切り倒せ」と言われた園丁は、予想外の答えを返していくのです。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」と。この、いちじくに肥料をあげるというこの行為があり得ないことなのです。それはより大切にされていたブドウの木にも肥料をあげないのに、先に話したような理由で植えられていた、いちじくの木に肥料をあげるということがまずないことなのです。
 ところが、この園丁はいちじくの木に対し、異常な執着を見せます。そして、イエス様の話を聞いていた当時の人達も、誰もがおかしいことを言っていると思っていたことでしょう。
 この話の結末、いちじくの木がどうなったかは聖書には書かれていません。先ほど申し上げた園丁の言葉で終えられています。だとすると、このたとえ話はいちじくの木がどうなったかが問題なのではなく、この園丁の異常な発言に焦点を当てているように思うのです。

 では、いちじくの木が何を示しているのか…。イエス様の話を聞いていた当時のイスラエルの群衆ということもできます。それも間違っていません。ただ、この箇所が現在まで聖書の言葉として語られているということは、他人事ではないように思えます。皆様もおわかりでしょうが、このいちじくの木は私たち一人ひとりのことであるのに、気づかされます。これを理解し、自分事としてきちんと聖書の言葉と向き合おうとする時、それはとても大切なイエス様が私に語りかけているお話しだと気づかされていきます。

 また、このブドウ園の主人とは、神様を指しています。神様によって植えられたいちじくの木である私達。神様によって命与えられたのは私達です。しかし、その木の実が何年も実らない。神様を信じない、従わない、神様を信じていますという人もいるかもしれません。しかし、では神様の期待しているような実を結んでいるのか、神様の期待するような人間になっているのかと問われたら、そうとは言えない自分があるのではないでしょうか。少なくとも私は、神様の期待するようにはなれていません。

 ブドウ園の主人は言います。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに~…だから切り倒せ…」と。ただ、ここで勘違いしてはならないのは、神様は短気だと思ってはならないということです。もう3年も待って下さっています。この「3年」というのは、文字通りの3年ではなく、しばらくの間、長い間ということです。十分に長い間、神様は私達が実を結ぶように待って下さったのに、実を結ばない。だから切り倒せというのも当たり前です。ただ、ここで出てくるのが園丁である、イエス様です。園丁はイエス様のことを示しています。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみせます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」と、異常なほどに、この価値のない木にこだわりもみせます。切り倒す思いを留まって、待って下さいと懇願さえしてくれるのです。そして、「肥やしをやってみます」と、ただのいちじくの木に特別な思い、愛を注がれます。

 実際、このいちじくの木の話に通じるような体験が、私自身にもあったなと準備の中で振り返させられました。一昨年の証しの際にも話しましたが、私が洗礼を受けるまで至った時の話です。私は幼稚園という場で、本当に多くのことを学んだと思います。当時の園長であった粂井先生、ならびに主任の桑瀬先生の指導の元、保育、キリスト教の神様とは…等、多岐に渡ることでした。ただ、その中にあって一つ言えることは、本当に先生方は私一人という人を受け止め、捉え、辛抱強く関わって下さったと思います。

 保育の仕事のことでは、ミスも多く、子ども達の前に立って一緒に保育していくことが中々できない私でしたが、特に桑瀬先生はできないところに目を向けて責めるのではなく、私の出来るところ、例えば身体を思い切り使ってよく遊ぶ…等、そういう部分をとても誉めて下さり、励まし、力付けて下さいました。苦手なピアノは「私もできないから、わかる、わかる!大丈夫だよ!」と大先輩とは思えない力みのない返答と、フォローで、勇気づけて下さいました。

 また、粂井先生からは保育のことよりは、人として、キリスト教に携わる者としての姿を教わったように思います。特に「黙殺」が一番の罪なのだと繰り返し話し、礼拝や普段の関わりの中で説いて下さいました。今もそれは私の中で、一番大切にしている教えです。また時には、礼拝の出席に関して遅刻が多かった、中途半端な私に、厳しい言葉をかけて下さったことも多かったです。ただ、こういった方々の関わりがそれこそ、本日の話に出てくる園丁のような存在であり、最後は桑瀬先生の半ば強引な言葉で洗礼に導かれたのだと思います。お二人が、私にどれぐらいの愛情があったのかは存じ上げませんが、この場を借りて、お礼をしたいと思います。 (……)

そのような思いを、当時のイスラエルの人々に、イエス様は伝えようとしていたのでしょう。そして、今を生きる私達も、イエス様によって、あり得ないほどの愛を注がれ、悔い改めるように、神様を信じるように、従うように導かれています。

 しかし、この話は優しい話だけではありません。主人である神様が「切り倒せ」と言っておられることだけでなく、園丁も最後には「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言っています。また、ここまで園丁であるイエス様が尽くして下さって、それでもダメなら仕方がないかもしれません。

 ただ、そのように働いて下さるイエス様がいたからこそ、今私はこうして立っていられるのかなと思います。私はイエス様と高校1年生の頃に出会いました。その後、洗礼に導かれたのは20代半ばでした。月日にして、およそ10年間です。このいちじくの木は3年間。それに比べ、長い月日悔い改めがなかった私は、このいちじくの木以上に切り倒されても同然であったと思います。しかし、それでも切り倒さず、イエス様は様々な形で肥やしを与え続けて下さいました。時に、それが肥やしであり、自分にとって良いものなのに、そんなわけはない、面倒臭い、見たくない、聞きたくない、与えられたくないということもたくさんありました。もしかすると、クリスチャンではない方々の中には、現在そのような心境で、その思いに気づいていない、また自分勝手だと自覚しながらも見て見ぬふりをして過ごしている人もいるかもしれません。

と、同様に私達は洗礼を受けても、神様の言葉を自分勝手に解釈し、振舞う姿が多くあると思います。時に人を裁いたり、無視したり、そういった姿は信仰を持つ者となっても変わらず、むしろ酷くなっていくことさえ、あるような気が致します。そのような私達のために、今も黙々と肥やしを下さるイエス様がいる。たとえ、実がならなくても、イエス様という園丁が私達の内に働いていることを今日の御言葉は私たちに語りかけ、それが神の国の本質だと示してくれているのだと思います。この聖書の御言葉を信じ、委ねていけるよう、これからも歩み続けていきたいと思います。


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