202516日 四旬節第4主日

                 ルカ福音書15章11~32節 「 自由という賜物 」 

1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3 そこで、イエスは次のたとえを話された。

11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで餓え死にしそうだ。18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
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ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

  こんな本があります。「自分に嫌われない生き方」という本です。ヨーロッパでの留学経験や、ドイツで会社を作った経験のある著者のようです。この本の中で、ヨーロッパのある教育機関で、こんなことを言われて雷に打たれたような思いになったといいます。それは、

日本では義務を教えるが、権利は教えない

と。「やらなきゃいけないこと、やってはいけないこと」は、親からも学校でも、社会からもずっと言われ続ける。でもヨーロッパでは、「やっていいこと、やらなくていいこと」つまり権利を教えることを大切にするといいます。
 それ以来この著者は、「自分がやりたいかどうか」をとても大切にするようになったといいます。どちらを選ぶ自分を嫌いになるか、好きになるかを、判断の大切な軸にするようになったといいます。この著者は、学校などで、年間500回くらい、講演するそうですが、よくある質問で、みんな自分のやりたいを優先したら、自分勝手になって秩序が乱れないのか、と聞かれるそうです。ただ実際には、自分の意志で決めたときは、自分の責任であると感じるし、失敗してもそこから学ぶ。そして、他者の意志、他者の決定も尊重するといいます。やらされていることは、人のせいにしがちで、他人にも同じようにやることを強要するといいます。
 何か月か前に、ネット上で、40歳を過ぎてパーカーを着ている男性をどう思うか、ということが話題になったことがありました。欧米の人にどう思うか尋ねると、大概の人がポカンとして、何を着るかは、人に言われることじゃない、自分で決めることだ、多くの人がそう答えたといいます。日本人は、人の評価を気にしますが、もっと自分で決めてよいのだと感じさせられました。
 こんなことも書いていました。小学校に上がる子供とその母親を別室に分けて、ランドセルの色、母親の方には、自分の子どもが何を選ぶか予想させたそうです。答え合わせをすると、6組中6組当たったそうです。ところが、子どもへの質問は、自分の親が選んでほしそうな色は、という質問だったそうです。そして、本当に自分が選んだ色は、という質問の答えは、1組を除いて5組はバラバラだったそうです。一見自分で選んでいるように見えて、求められていることを読んで、応えていることがあります。本当の意味では、自分で選んでいないことがあります。そういう場合も、させられているという思いがどこかに含まれている。外見上自分で選んでいるように見えて、させられていると胃思いがあると、人のせいにしたり、同じようにしていない人を批判したりするそうです。
 改めて放蕩息子のたとえ話を読みなおすと、この父親は随分息子に自由を与えています。子どもの意志を最大限尊重しています。赦された自由の中で、この弟は、自分で決めて生きてきた人なのだと思います。そして失敗もしますが、その失敗のおかげで、自分の家のすばらしさに気づいたりもしています。そして父に再会し、父親の愛情深さも、改めて知ったでしょう。父親を通して示されているのは。神さまの姿です。弟の申し出を受け、相続財産を求めるがままに差し出す。失敗して戻ってきたら、全てをゆるし喜んで迎え入れてくれる。神さまは、わたしたちに、ずいぶんと自由を与えてくれているようです。自分で決めてよい。人の目を気にしたり、人の評価を気にしたりする必要はない。そして、失敗をしてもいい。失敗して困って助けを求めると、喜んで助けてくれる。愛情は少しも変わっていません。
 もしかしたら、兄の方は外見上、自分で選んでいるように見えて、しぶしぶそうしている、という思いがあるのかもしれません。
 放蕩息子のたとえ話から教わることの一つは、神さまはわたしたちが思うより随分と人間に自由を与えてくれているということです。人間の意思を尊重してくれています。もう一つ教わることは、自分で決めた人は、人のせいにはせず、自分の非を認めやすいということです。失敗しても戻ってくる場所があります。もっと自由に生きていい、神さまはそう語りかけています。


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