2025日 四旬節第5主日

                 ヨハネ福音書12章1~9節 「 自由という賜物 」 

12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

  先週までルカ福音書を読んでいましたが、今日はヨハネ福音書12章です。ずっと読み進めてきたわけではないので、前後関係が分かりにくいと思います。過越祭の六日前、と書かれていますから、イエスさまが十字架にかかる六日前です。11章では、今日の箇所にも出てくるマルタとマリアの弟ラザロが死んで4日たった後、イエスさまによって生き返った出来事が書かれています。多くのユダヤ人が神を賛美し、イエスを信じたが一方で11章の48節には、

11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」

  と書かれ、イエスの死刑が決定していきます。イエスさまの居所が分かれば、すぐに届けるように命じています。逮捕するためである。11章はそう終わっています。その中での12章です。ここで行われているのは、ラザロを死から救ってくれたことのお礼の食事会のように感じられます。そこで、マリアは、高価な香油をイエスさまに注ぎ、自分の髪でそれをぬぐったと書かれています。1リトラと書かれていますが、330グラムくらいだといわれています。牛乳パックの3分の1くらいですが、値段は300デナリオン、1デナリオンが1日の労働賃ですから、年収分くらいです。何百万円かでしょう。その光景を見ていたユダという弟子は、腹を立て、これを売って貧しい人に施す方がよいといいます。貧しい人のことを思っていったわけではない、と書かれていますが、言っていることは正当だと感じます。しかし、イエスさまはマリアの行為を喜んで受けとめています。
 孫引きで申し訳ないのですが、ある本の中に村上春樹のエルサレムでのスピーチが引用されていました。村上春樹が小説を書き続ける理由を語っているようです。それはこんな言葉です。 

 もしここに固い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています。そのシステムは本来我々を守るべきはずのものです。しかし、ある時にはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、システマティックに。私が小説を書く理由は、せんじ詰めればただ一つです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムにからめとられることのないように、常にそこに光を当て、警笛を鳴らす。それこそが物語の役目です。

 そう書かれています。これはこの本の中で、人を助ける、救う、ケアするというのは時に汚名を浴びてでもルールや規範を破り、その人の大切にしているものを、一緒に大切にすること。その人の尊厳を守ること、それを説明するための引用です。人間は、理屈にはできない、大切なもの、愛するものを持つからです。
 マリアにとって、イエスさまは死者を救ってくれた人ではありません。自分の弟ラザロを救ってくれた人です。自分の大切な存在を、救ってくれた人です。この個所でのマリアの姿は、イエスさまへの献身です。
 救いは平等を目指した規則やシステムでは起こりません。救いは、出会いの中で起こります。何とかしてあげたい、何かを大切に思う愛から生まれるものです。
 奇跡とは、神さまのルール破りです。イエスさまはラザロとその兄弟を救いましたが、結果として十字架にかけられていきます。文字通り身をささげた人です。マリアは、ラザロと自分たち兄弟のために、自分の身を危険にさらすイエスさまの姿に、イエスさまの自分達への愛と献身を見ました。マリアが高価な香油を注いだのは、その応答としての献身のしるしです。
 イエスさまの十字架が、結果多くの罪人を救うためのものになりますが、それは名前のない多くの罪人ではなく、あなたを救うためのもの、私を救うためのもの、そんな風に感じられる時、わたしたちも献身的な生き方ができます。結果多くの人が聞いていますが、聖書の教えが私のために語られている、そんな風に感じられる時、生き方が変えられていきます。知識として神の愛を知るのではなく、神さまからの愛を感じるからです。
 人は自分が大切に思っているものを、大切にできずにできなかったり、失ったりして心を痛めます。たとえ自分のせいではなくても、もっとこうしてあげればよかった、こうもできたのではないかと心を痛めます。罪悪感を感じます。あなたの罪をゆるし、命を与え直し、心の痛みを癒す力を持った方がいます。日本語で救い主、ギリシャ語でキリスト、ヘブライ語でメシアです。メシアの本来の意味は、油注がれたものです。わたしたちも、マリアと共に、あなたは私の救い主、そう信じて共にイエスさまに油を注ぎましょう。そして、イエスさまに仕える生き方をしていきましょう。


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