202513日 四旬節第6主日

                 ルカ福音書19章28~40節 「 新しい王 」 

19:28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。 19:29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、 19:30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。 19:31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」 19:32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。 19:33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。 19:34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。 19:35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。 19:36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
19:37
イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
19:38
「主の名によって来られる方、王に、
祝福があるように。
天には平和、
いと高きところには栄光。」
19:39
すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。 19:40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

  捨てにくいものとして、人からもらった手紙があります。宣伝や銀行からの手紙のようなものは捨てられます。知り合いからもらったプレゼントも捨てにくい。それは単なるものではなく、祈りのようなものが加わっているからです。最近では、自分へのプレゼントという言葉も聞きますが、自分から自分へのプレゼントならば、不要になれば捨てられます。自分ではなく、他人からしかもらえないものがあります。
 今週は受難週です。復活祭の一週間前に与えられる聖書の箇所は、エルサレム入城と呼ばれる個所です。イエスさまはエルサレムに入る直前に、二人の弟子を使いに出し、向こうの村に入ると、子ロバがつないであるのが見つかるから、それをほどいて持ってきなさい、といいます。なぜ、ほどくのかと聞かれたら、「主がお入り用なのです」と言ったら、赦してくれる、そう言って使いに出し、その通りにロバを連れてくる話が出てきます。なぜこんなことが可能だったのか、神学者は悩み、預けてあったものだとか、もともとの知り合いで合言葉を決めていたとか、いろいろ苦労して説明します。しかし、それならば、わざわざ聖書に載せる必要のない出来事です。素直に読めば、不思議と手に入った、ということだと思います。新共同訳では、「主がお入り用」と訳されていますが、「主が必要としている」とも訳せる言葉です。必要を辞書で引くと、「なくてはならないこと」そう書かれていました。できればほしいとか、あればいい、といったものではなく、「なくてはならぬもの」は、不思議と手に入る、イエスさまはそれを弟子に教えた気がします。
 イエスさまは手に入れた、子ロバに乗って、エルサレムへ入られます。弟子たちは、今まで見た奇跡、今までのことを思いながら、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」そう歌いながら、エルサレムに入っていきます。少し不思議な気がします。今まで、イエスさまは自分を王にしようとする人から、ずっと逃げ続けていました。奇跡で人を癒しても、誰にも言わないように伝えていた方です。加えて、弟子たち当人は自覚していませんが、イエスさまは、この5日後に、この弟子たちに裏切られ、逃げられることを知っています。そのイエスさまが、王さま然りとしてエルサレムに入ってこられたのはなぜなのだろうと思います。今日の日課の終わりの方に、この騒ぎを止めようとして、ファリサイ派の人がイエスさまに、弟子たちを叱るように言っています。それに対して、イエスさまは、

「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

  そう言い返しています。イエスさまが十字架にかかった罪状は、偽ユダヤ人の王、偽メシアです。イエスさまは、ユダヤ人たちの望んでいた王、私たち人間が望んでいたメシアとは違っていた、だから裏切られたような思いになり十字架につけていく。ただ、新しい王を望む、その思いは強く、救い主を求める思いは本物でした。止めても石が叫びだす、それほどに切実でした。なぜ新しい王を望むのか、それは今が満たされていないからです。今が満たされていない、その気持ちは強く、本物でした。とても便利になったこの世界ですが、わたしたちにも満たされない思いがあります。この満たされなさを埋めるのに、私たちは何を望むでしょうか。
 イエスさまが差しだれたのは、「揺るぐことのない愛」です。どんなに失敗しても、どんなに罪を犯しても、その方自身を裏切っても、その方自身から逃げ去っても、その方自身を殺しても、復活してなお赦し、なお愛してくれる、揺るがぬ愛です。
 わたしたちは、もしかしたら、満たされないものを埋めるために、更なる豊かさや力を望むかもしれません。そしてイエスさまの差し出すものに目を向けないかもしれません。でも、イエスさまの方の愛は揺るぎません。本当に必要だと思った時に、手を伸ばせばよい。聖書はそう語っています。イエスさまの受難を覚えながら、復活祭を目指して、聖なる一週間を過ごしましょう。


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