202511日 復活節第4主日

                 ヨハネ福音書10章22~30節 「 本物を見分ける 」 

10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。 23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。 24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。 26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。 27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 30 わたしと父とは一つである。」

  とても気候も良くなり、幼稚園では子どもたちが、先生に引率されて、よく散歩に出かけています。子どもたちは、先生の注意を聞いて散歩に出かけます。なぜ、それをしてはいけないか、全部を理解している子どもばかりではないと思います。でも、先生を信頼しているので、先生の言ったことだから、それが理由で、先生の言いつけを守ってついていきます。
 私自身は、毎日乳児、赤ちゃんと接しています。少し会話もできる子もいますが、全くしゃべれない子もいます。私が抱っこした途端、泣き出す子どももいますし、私が抱っこした途端、泣き止む子どももいます。信頼って、人に強制できるものではありません。信頼は、心の中から湧き上がるものです。
 恋愛相談を聞いていて、なるほどと思うことがありました。その人が信頼できるかどうかは、相手の言葉ではなく、相手の行動を見なさい、と言っていてなるほどそうだと思いました。言葉では何とでもいえます。しかし、その言葉が本当かどうか、それはその人のふるまい、行動でわかります。赤ちゃんは言葉はなくても、その人のふるまいで、この人が安全な人なのか、信頼できる人なのかを判断しているようです。
 信仰も同じです。人に強制できるものではありません。どんなに言葉を費やしても、その人の行動、ふるまい、生き様で、信頼できるかどうかを判断されます。キリスト者が何を語るかではなく、キリスト者のふるまい、行動、生き様で判断されます。その意味では、自分は良い証し人ではありませんし、間違いなく罪人だと思わされます。しかし、キリスト者の特徴の一つは、聖い人間としてではなく、自分も赦された罪人として、証ししていくということです。使徒たちも、いざという時は裏切ったものとして、いざという時は逃げたものとして、それでもなお許され、愛されたものとして証ししていきます。
 今日の箇所で、イエスさまは問われます。

 いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。

 それに対してイエスさまは、

 わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。

  イエスさまは、イエスさまの言葉以上に、イエスさまの行う業が、一番の証しであるといいます。洗礼者ヨハネの弟子たちにも、同じように尋ねられる場面があります。あなたは来るべき方なのか、他の人を待たねばならないのかと。イエスさまは、ヨハネの弟子に、私の行っていることをヨハネに伝えなさい、そう答えています。目の見えない人が見えるようになり、足の不自由な人が歩けるようになり、貧しい人が福音を聞いている、その様子を伝えなさい、と答えています。
 
今日の日課の直前の箇所で、イエスさまは、私は良い羊飼いだと語っています。雇人の羊飼いは、オオカミが来ると羊を置いて逃げるといいます。しかし、良い羊飼いは、羊のために、命を捨てることができるといいます。どんなことを言ったかではなく、どんな振る舞いをしたか、どんな行動をとったか、どんな風に生きたか、それが言葉以上の証しであるとイエスさまは言います。本当に信頼できる人、本物の羊飼い、本当の救い主、あなたには見分ける力がある、イエスさまはそう語ります。見分けられない人は、イエスさまの羊ではないといいます。しかし、イエスさまの言葉以上に、イエスさまのしていること、イエスさまの生涯を知るとき、この方は本物である、そう思える人には、イエスさまから選ばれている人です。イエスさまの羊として、イエスさまからの守り、イエスさまからの恵み、イエスさまの永遠の命を受けることができる、イエスさまはそう語ります。この方を信頼して、この方についていきたいと思います。


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