2025年5月11日 復活節第4主日 |
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ヨハネ福音書10章22~30節 「 本物を見分ける 」 | |
10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。 23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。 24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。 26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。 27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 30 わたしと父とは一つである。」 |
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とても気候も良くなり、幼稚園では子どもたちが、先生に引率されて、よく散歩に出かけています。子どもたちは、先生の注意を聞いて散歩に出かけます。なぜ、それをしてはいけないか、全部を理解している子どもばかりではないと思います。でも、先生を信頼しているので、先生の言ったことだから、それが理由で、先生の言いつけを守ってついていきます。 私自身は、毎日乳児、赤ちゃんと接しています。少し会話もできる子もいますが、全くしゃべれない子もいます。私が抱っこした途端、泣き出す子どももいますし、私が抱っこした途端、泣き止む子どももいます。信頼って、人に強制できるものではありません。信頼は、心の中から湧き上がるものです。 恋愛相談を聞いていて、なるほどと思うことがありました。その人が信頼できるかどうかは、相手の言葉ではなく、相手の行動を見なさい、と言っていてなるほどそうだと思いました。言葉では何とでもいえます。しかし、その言葉が本当かどうか、それはその人のふるまい、行動でわかります。赤ちゃんは言葉はなくても、その人のふるまいで、この人が安全な人なのか、信頼できる人なのかを判断しているようです。 信仰も同じです。人に強制できるものではありません。どんなに言葉を費やしても、その人の行動、ふるまい、生き様で、信頼できるかどうかを判断されます。キリスト者が何を語るかではなく、キリスト者のふるまい、行動、生き様で判断されます。その意味では、自分は良い証し人ではありませんし、間違いなく罪人だと思わされます。しかし、キリスト者の特徴の一つは、聖い人間としてではなく、自分も赦された罪人として、証ししていくということです。使徒たちも、いざという時は裏切ったものとして、いざという時は逃げたものとして、それでもなお許され、愛されたものとして証ししていきます。 今日の箇所で、イエスさまは問われます。 いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。 それに対してイエスさまは、 わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
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