2025年5月18日 復活節第5主日 |
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ヨハネ福音書13章31~35節 「 かっこ悪くて かっこいい 」 | |
13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」 |
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今日の箇所は、ヨハネ13章です。13章は、イエスさまが弟子たちの足を洗うところから始まる、最後の晩餐の場面です。ユダが出ていくと、と書かれていますが、ユダは裏切ってイエスさまを売るために出ていきました。その時イエスさまは、人の子は栄光を受けたと語り始めています。裏切られること、十字架で殺されることをなぜイエスさまは、栄光と表現するのだろうと思います。加えてイエスさまは、あなた方が来ることのできないところに行くといい、新しい掟を与えるといいます。新しい掟とは、私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい、そう語ります。この互いに愛し合いなさい、という教え、掟が、なぜ新しい掟なのだろとも思います。互いに愛し合う事の大切さは、聖書によらずとも、小さい頃から教えられてきたことです。 ただ、「愛」って、言葉では説明し尽くすことのできない、不思議なものです。年齢や経験を重ねると、愛に対する考え方が変わっていきます。ただ優しくすることばかりが愛ではない、そう思えるようになることもありました。愛って、たんに素敵なものでもない、そう思い始めることもあります。 「北の国から」というドラマで、92巣立ちという回があります。純が中学を卒業して東京に出て5年くらいたったころ、ある女の子と知り合い、妊娠させ、中絶させてしまうという回です。菅原文太ふんする、その女の子の厳しいおじさんに純は呼び出されます。殴られ、厳しい言葉をかけられ、最後に保護者の連絡先を書くように言われます。純は父だけは巻き込みたくないと思っていましたが、自分自身に責任能力がないことを指摘され、保護者の連絡先を伝えます。おそらくそのおじさんから、純の父五郎のところに連絡がいく。五郎は、すぐに東京に出てくる。純と一緒にそのおじさんのところに行くと、五郎は富良野から持ってきたカボチャを6個差し出して、地面に頭こすりつけて謝り続けます。おじさんは五郎に、父親にも責任を取る金銭的な余裕がないことを感じ、あなたの娘さんが不良に引っ掛けられて妊娠したら、どんな思いになるか必死に想像しなさい、とかなり厳しく言われ、カボチャも突き返されて、帰らせられます。がっかりした純と五郎がとぼとぼ歩いていると、純は五郎に少しお酒を飲んでいこうといわれます。そこで純は、話していて胸が締め付けられる思いをしていく。相変わらず貧しい服装で、どこでお金をかき集めてきたのか、その父が初めて飛行機に乗って駆け付け、屈辱的なことを言われても、純のことを一向に叱ろうともせず、壮太兄ちゃんの結婚式の話、庄吉に再会した話、蛍の話など、明るい話しかしない。それで胸が締め付けられます。 イエスさまの十字架は、十字架の贖いです。贖いとは、代わりに謝ってくれること、代わりに弁償してくれることです。本当の愛は、それがたとえかっこ悪いことであったとしても、あなたを救うのに必要ならば、それも引き受けてくれることでもあります。 第一コリントと13章に、愛の賛歌と呼ばれる聖句が出てきます。あの箇所が嫌いだという人もいます。気持ちはよく分かる。自分にはこのような愛は持っていないと思わされるからです。しかし、この愛を持っている方、しかもその愛をあなたに向けてくれる方がいます。 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。
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