202525日 復活節第6主日

                 ヨハネ福音書5章1~9節 「 良くなりたいか 」 

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。

  今日の福音書の箇所、ベトザタの池の話です。この池は、風もないのに、急に湖が波打ちだすときがあったそうです。それは天使が触れたと信じられていて、水が動いた時、最初に水に触れた人は病気が癒されると言われていたそうです。ですからこの池には、病気の人や、足の不自由な人などが集まっていたそうです。イエスさまが、このベトザタの池を訪れる。そこに、38年間病気で苦しんでいる人がいます。聞けば、水が動く時誰も手伝ってくれないし、皆が追い抜いていくと言います。その人にイエスさまは尋ねます「良くなりたいか」。イエスさまは改めてそう尋ねています。愚問に思えます。
 自助グループというものがあります。アルコール依存症とか、薬物依存症とか、ギャンブル依存症とか、そういう人たちが集まってきて、それぞれ自分のことを話す集いです。邪魔をせずに、肯定も否定もせず、互いに言いっぱなし、聞きっぱなしの集いです。自分が発言したくない時は、パスしてもいいそうです。ある精神科医が、これに効果があることをとても不思議に感じるといいます。回復のための12のステップがあるそうです。全部は紹介しませんが、一部を紹介します。

1、      私たちはギャンブルに対して無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。

2、      自分を越えた大きな力が、私たちの考え方や生活を健康的なものに戻してくれると信じるようになった。

3、      私たちの意志と生き方を、自分なりに理解したこの力の配慮に委ねることを決心した。

11、祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的なふれあいを深め、神の意  志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。

そしてこの集いの最後には、ラインホールド・ニーバーというアメリカの神学者の「平安の祈り」という祈りを祈ります。 

 神さま、私にお与えください。自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを、変えられるものは、変えていく勇気を、そして二つのものを見極める賢さを

  ただ、この自助グループにたどり着くまでが大変のようです。自分の強い意志で、依存を克服しようとおもう。もうやらない、周りの人にそう言うそうです。これを何十回、何百回失敗して、自助グループに来るそうです。
 人は生きていれば、たくさんの傷を負います。人は暇になると、その傷や痛みを思い出してしまう。だから、何かに依存する。わたしも、暇が苦手なタイプです。仕事を入れたり、用事を入れたりします。動画を見たり、人は何らかの依存症かもしれません。それがたまたま、生活に支障をきたすものではないのかもしれません。しかし、それが仕事に依存したとしても、ワーカホリック、度が過ぎれば、命を危険にさらすこともあります。それを薄々わかっても、やめられないのが依存症です。ある人は言う。依存症の人を見ていると、緩慢な自殺をしているように見えると。良くなりたいか、答えが決まっていそうな質問をイエスさま改めて確認します。
 第一ステップにたどり着くことが難しいのですが、第一ステップは、自分の無力さ、意志の弱さを認めることです。自分で変えられることは努力しますが、自分のことでありながら、自分ではどうしようもないことがあることを認めることです。それを神さまを信じて委ねることです。でも、言われてもなかなかできません。すべてには時があります。ただ、覚えておいてほしい、神さまは、あなたが良い人生を送ることを願っています。
 
良くなりたいか。自分で自分を慰め、癒すには限界があります。あなたは、あなたなりに頑張ってきた。でも、誰も手伝ってくれない、みんなが追い抜いていく。自分だけではどうしようもできないことがあります。
 礼拝は、罪の告白から始まります。礼拝は、自分の弱さを認めたものの集まりです。自分を持て余しているものの集まりです。しかし、主には癒す力があることを信じているものの集まりです。主は新たに歩き出す力を与えてくれます。自分の弱さを認め、主に委ねましょう。


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