20255日 三位一体

                 ヨハネ福音書16章12~15節 「 真実の霊 」 

12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

  私の知り合いで、犬を飼っている人がいて、その犬は小さい頃に大きな犬にかまれたことがあるそうなんです。それ以来、散歩のときにほかの犬とすれ違うと、吠えまくるんだそうです。全部が敵に見える。吠えまくっていたら、相手の犬はもともとは敵対心がなかったのに、吠えまくられるので、吠え返してくるそうです。それで知り合いの犬は、やはり敵なんだと思い、また次の犬にも吠えるそうです。イソップ童話のような話です。敵じゃない相手を敵視して、吠えまくっていたら、本当の敵になってしまう。
 アメリカやロシアの大統領もそんな風に見えます。疑心暗鬼で、被害妄想が広がり、でも、それが元で、本当に敵対してしまう。
 エマニュエル・ドットという社会学者が、今年出した本の中で、現在は、聖土曜日のような世の中だといいます。聖土曜日というのは、イエスさまが十字架にかかった聖金曜日と、復活された日曜日の間の土曜日のことです。神さまが本当に不在の一日です。
 今日の福音書の日課に、真理の霊という言葉が出てきます。真理という言葉の響きには、何か固く揺るがない、完全に正しいこと、というイメージを持つ方もいるかもしれません。しかし、聖書に書かれている真理とは、真実、本当の事、という意味に近いという人もいます。今日の日課の手前ですが、16章の7節に、「実をいうと」という言葉が出てきますが、この言葉の中にも原文では、真理という言葉が含まれています。真理を言うと、と訳してもよい文章です。イエスさまの十字架によって、全ての本当の姿が明らかになるといいます。罪とは、イエスさまを信じないこと、イエスさまを憎むことです。15章の終わりで、イエスさまを憎むのは、父なる神を憎んでいるからだといいます。神さまなんかいない方がよい、本当は多くの人がそう思っている。ドットいわく、現在は人間が願ったような、神不在のように思われる時代です。少なくとも、こうして礼拝に来られている人は、神不在の世の中など、望んでいないかもしれません。しかし、そんな私たちでも、神の不在を感じる時代ではないでしょうか。神不在の時代は、果たして良い時代でしょうか。
 神不在というのは、たんにキリスト者が少なく、信仰が不活発な時代、という意味ではありません。やろうと思えばできるけど、人としてやってはいけない、一線を越えてはならない何かがない時代です。尊敬し、一目置く、そういうものがない時代です。
 今は、むき出しに強者が横暴にふるまう時代に見えます。頼るもののない、寄る辺のない時代で、疑心暗鬼で被害者妄想、被害者意識の強い人が多い時代です。
 詩篇の中には、神の不在を嘆く詩篇があります。いつまで放っておかれるのかと。不在の嘆きは、本当には不在ではないと思っているからこそ、神に向かって嘆き求めています。
 聖書では、神不在を感じる場面が何度か出てきます。試練の時代です。荒野の40年。預言者が一人になった、エリヤの時代。バビロン捕囚の時代。モーセやダビデがリーダーになる前も、不遇の時代を過ごしています。イエスさまでさえ、公活動を始める前に、荒野で40日を過ごしています。そして最後には、十字架にけられています。今は試練の時です。神さまが不在であることの、困難さを味わう時代です。飢え渇く時代です。しかし、その先には、約束の地があり、復興、解放の時があり、復活があります。
 聖書を読んでいて、不思議に思うことがあります。パウロが活躍を始めた時代には、新約聖書の文書は、一つもなかった。パウロの手紙が、後に新約聖書の最初の文書になっていきます。パウロは、どうやって、イエスさまの十字架が、罪人の贖いのためのものであり、私たちも共に神の国に招かれ、永遠の命が与えられることを理解したのだろうと思います。キリスト教信仰は、パウロの発明ではないか、という人もいました。しかし、その教えは2000年間続き、世界中に広まっています。確かに、真理の霊が、使徒たちにそれを解き明かしたとしか、思えません。
 もう一度、聖霊が力強く働いてくれることを共に祈り求めましょう。私たちの思いを越えた神のみ旨を深く悟る、その時が私たちにも来るように祈りましょう。人類が、神さまへの畏れを取り戻し、謙虚になり、悔い改める日が早く来るように祈りましょう。吠えられても吠え返さず、なお愛をお与えくださる憐みの神が、近くに感じられるよう祈りましょう。聖土曜日は、決して長くはありません。信じて神の力を待ちましょう


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