No.02

個人で礼拝を守るにあたって

 

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

 

ヨハネ福音書14章1~14節 「 道 」 吉田達臣

         

1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 

達人の域に達した人に、その極意を聞いてみると、意外に拍子抜けするほど、シンプルで当たり前なことを言われたりします。北王子魯山人という美食家が、最終的にたどりついたグルメとは、「ごはんとみそ汁」だといいます。私たちも口真似をして、美食家のふりをして、同じことを言うことはできます。しかし、魯山人と同じような境地で語っているかどうかは、かなり怪しい。長嶋茂雄さんにバッティングのコツを聞くと、「来た球を打つ」と答えたそうです。そこで何かハッと気づかされる部分もありますが、それで長嶋さんのようなバッティングができるかというと、もちろん無理です。

ルターの、「恵みのみ」という信仰観も私たちどこまでわかっているのだろう、と思います。ルターの口真似をして、「救いは神の恵みのみ」と語ることはできますが、どこまでルターの語っている意味が分かっているかというと、正直自信がありません。でも、だからこそ、知りたい、その境地に近づきたいとも思います。高校生の頃、数学の問題の解き方が分からなくて、先に答えを見てみることがありました。答えを見てみると、それが解き方のヒントになる時がありました。答えだけが分かっても、その問題が解けたことにはなりませんが、答えを知っているというのは、最も有力な道標です。解き方が分からなくても、答えを知っていることは大きなプラスです。

今日の福音書はヨハネ14章です。ヨハネによる福音書は13章から、イエスさまが弟子たちの足を洗う、という行為から始まる最後の晩餐に入っています。今日の日課には、有名な聖句が出てきます。6節に

 

わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 

と書かれています。多くの牧師が語ります。この三つは並列に並べられているのではなく、強調点は、「道」に置かれている。だからこそ、「私を通らなければ・・・」という言葉が続いていく。アウグスティヌスという人は、この箇所を言い換えて、イエス・キリストは「真の命にいたる道」であると語りました。使徒言行録を見ると、キリスト者は「道の人」と呼ばれていたことが書かれています。

「道」というのは日本人にはなじみ深い。柔道、剣道、茶道、そればかりではなく、野球道とか、私個人的には、「プロレス道」という言葉も聞いたことがあります。イメージとしては、勝ち負け、強い弱いも重要でないとは言わないが、それ以上に、それを通じて、人生で本当に大切なことは何か、人間として大切にしなければならないことは何かを学ぶ、そのような時に「道」という言葉が使われる。

イエスさまの語る、「真の命に至る道」とは、なんなのでしょう。本当に大切にしなければならないものとは何なのでしょう。今日の箇所には出てきませんが、ヨハネ福音書の最後の晩餐で繰り返し語られていることがあります。新しい掟、最後の掟として語られていることがあります。それは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という教えです。イエスさまは、新しい掟といいますが、イエスさまが最初から語っていたことのような気がします。

加えて言えば、聖書を読む前から、知っていたし、分かっていたような気もします。しかしイエスさまはここで、私が真理であり、命であり、道である、私を通らなければならない、といいます。イエスさまを通らなければ、本当の愛は分からないのでしょうか。確かに、愛って難しい。子どもを愛するってどういうことなのだろう、と悩んだことの無い保育者はいないと思います。隣人を愛するってどういうことなのだろう、信徒の方からそんな相談を受けたこともあります。力んだって、人を愛することができるようになるわけではありません。ただ。やさしくすることが人を愛するということでもありません。

C・Sルイスという作家が、「キリスト教を信じないで善く生きることはできるか」という質問に対して、答えている文章があります。そこで、ルイスが最初に問題にしたのは、この質問者が考えなければいけないことは、「どこかの誰かが、キリスト教を信じないで善く生きることはできるか」を聞きたいわけではないだろう。本当のところ、いつだって問題は、自分です。「自分は、キリスト教を信じないで善く生きることはできるか」その問いを持っていることに向き合わなければならない、ということです。おそらくこの質問者は、キリスト教が何の役にも立たない、悪いものだとは思っていない。思っているなら、この質問は出てこない。良いものだとは感じているが、それ無しで善く生きられるだろうか、そう考えているのでしょう。気にはなっているが、それと関わりなく生きていても、問題はないだろうか、そう考えている。私が言えることは、「善い」とは何か、真剣に考え、真剣に知ろうとすることなしに、善くなることはできない、ということだとルイスは答えています。

「真の命に至る」とはどういうことなのか。「イエスさまが愛したように、互いに愛し合う」には、どうすればよいのか。すぐに、すっかり分かってしまうものではありません。でも、知りたければ、真剣に関わるしかありません。イエスさまは言います、私がそれを知るための道であると。イエスさまは言います。あなたはもう答えを知っているし、ゴールすることも決まっている。私はあなたが最後にたどりつく部屋を神のもとに造った。そこに至る道も備えた。私がその道である。あなたの部屋を作ったら、あなたのところに戻ってきて、あなたを私のもとに迎える。

私たちのなすべきことは、イエスさまの導きに従うことです。その道を信じることです。真の命に至るとは、どういうことなのか、分からないながらに分かりたいと思い、イエスさまの導きに従うことです。イエスさまの語る愛とは何なのか、どのようにその愛で人を愛せるようになるのか、互いに愛しあうことが、真の命に至ることなのか、分からないながらも、分かりたいと祈り、イエスさまに委ねて、導きに従うことです。神の家にたどり着くことを信じ、備えられた道を歩みましょう。

 

〇 神さまにお祈りしましょう

〇 よく合う讃美歌  教会賛美歌 402番「うれしき恵よ」

416番「わがゆく道」