No.07

個人で礼拝を守るにあたって

 

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

 

2020年6月14日 聖霊降臨後第二主日

マタイ福音書9章35~10章8節 「 ただで受け、ただで与える 」 吉田達臣

9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

10:1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。 10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 10:3 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、 10:4 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

10:5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 10:7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

 もう誰に聞いたのかも忘れてしまったのですが、確か、後輩の牧師だったと思うのですが、こんな話を聞きました。天国のスプーンは長い、という話です。天国のスプーンをあまりに長くて、スープですくって、自分の口に入れることはできない。ただ、人に食べさせることはできますし、人から食べさせてもらうことはできる。天国とは、互いに食べさせ合うことのできる人がいる場所だと。その話を聞いて、今振り返ると、自分は本当に根性がねじ曲がっていると思いますけど、私は、スプーンは長くても、短く持てばいいじゃん、って思いました。こんな根性の人には、御国は与えられません。

スプーンはともかく、自分で自分にはできないけど、人にしてもらうことで、できることがあります。今、私たちがしているマスク、知っている人が多いとは思いますが、布の網目はウイルスよりはるかに大きく、病気をもらわないための予防にはならないものです。ただ、飛沫を人に飛ばさないための予防にはなります。マスクは、うつらないためのものではなく、うつさないためのものです。でも、お互いにうつさないようにしようとすることで、うつらない予防に結果なります。自分で自分にはできないけど、人にしてもらうことで、できることです。

さらに言えば、自分でできないわけではないけど、人にしてもらうことで、その力が大きくなったり、大きな喜びが増し加わるものならたくさんあります。ボンヘッファーは「共に生きる生活」という本の中で、聖書を読み、神さまは私を赦してくださり、私を愛してくださる、そう何度も言い聞かせることは決して間違ったことではない、といいます。しかし、自分で何度も言い聞かせるより、兄弟姉妹の口から、あなたは神さまにすべてを赦され、すべてを愛されている、そう聞かされることのほうが何倍も力がある、といいます。もう少し言えば、イエスさまに、権威を委託してもらった教会が、イエスさまの思いとして、救い主からの赦しと、神さまからの変わらぬ愛が語りかけられることも、大きな力を持つことです。だからこそ、私たちは礼拝に来る。1か月礼拝を休みました。今も来られず、原稿や、動画で礼拝している人もいます。何人かの人に言われました。何もなく一人で信仰を守るより、説教原稿を見られるほうがいい。でも、動画を見ると、自分で読むより、聞くほうがいい。少し印象が違うと。人から与えられるものには、力があります。

私たちの礼拝は、開会の部で始まりますが、閉会の部では終わりません。礼拝の最後は、派遣の部です。今日の日課は、十二弟子の派遣の箇所です。

マタイによる福音書は、5章から7章までが、いわゆる山上の説教と呼ばれ、教えと福音が語られます。8章9章では、奇跡と奇跡による癒しの話が集中的に出てきます。今日の日課の冒頭、9章の最後はそのまとめのような箇所です。

9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。

それしてみて、イエスさまが抱いた感想は、群衆がまるで飼い主のいない羊のようだ、というものです。働き手が与えられることを祈るようにすすめ、次に十二人の使徒を選びます。イエスさまの弟子の特徴は、弟子が師匠を選んだのではなく、主が弟子、使徒を選ぶところです。弱いもの、やがて裏切るもの、逃げるものも含まれています。

この時は、まだ本格的な派遣というより、実習に近いものかもしれません。先週の箇所では、すべての民に福音を伝えるよう命じていますが、この箇所では、失われた兄弟のところに行くよう、命じられています。私たちでいえば、いきなり知らない人のところに行けと言われているわけではなく、かつて信仰を持っていたもの、かつて信仰に興味を抱いていたもの、というところかもしれません。そこに行って、何をするように命じられているのか、それは、今までイエスさまがこれまでしていたことと、同じことです。教え、御国の福音を宣べ伝え、思いわずらいを癒すことです。この時イエスさまは、使徒たちに権威を授けたといいます。この時、使徒たちは、イエスさまのような、奇跡を起こす力も持っていたのでしょうか、それは分かりません。少なくともいえることは、私たちは、イエスさまのように奇跡を起こす力は持っていません。ならば、奇跡によるのではなく、地道にやっていきましょう。この後の部分を読めば、この弟子たちに求められていたことも、華やかな活躍をすることを求められていたのではなく、地道に奉仕することを求められていたのでしょう。イエスさまは、奇跡で自分を信じるものを信頼されなかったと、聖書には書いてあります。奇跡では伝えられないものがあります。むしろ、イエスさまの地道さに目をとめなければ、分からないことがあります。その後教会は、教育、宣教、病院や、福祉活動を地道に行ってきました。

今は便利な時代です。自粛生活をしてみて、一人だけも生きられる、他人と会わなくても生きられると、感じもしました。でも、同時に、この生活には、とても大きな何かが足りないとも感じました。

他人に与えられるほうが、大きな力を持つことがあります。他人に与えられるほうが、喜びが増し加わるものがあります。すごい力で与えられたことより、小さな力で、地道に与えられたものの中に、大きな宝が秘められています。あなたの小さな力を待っている人がいます。収穫は多いのに、働き手が少ないと、イエスさまは嘆かれます。小さなしもべとして、小さな力をイエスさまのために使っていきましょう。ただで受け、ただで与えることの中に、聖書の教える喜びがあります。ただ受けるだけではなく、ここから派遣されて、小さなものを地道に与えていきましょう。