No.10

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2020年7月5日 聖霊降臨後第四主日

マタイ福音書11章16~19 25~30節 「 柔和で謙遜 」 吉田達臣

16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。

『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』

ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

 

11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 

今広島県で、河井克行さんと案里さん夫妻が、買収の容疑で逮捕されたという話が出ています。ただ、この買収の容疑で起訴するのは本来とても難しいようです。これが選挙期間中に、票の取りまとめをしてほしいと言ってお金を渡しているならば、難しくはないのでしょうが、参院選の期間ではなく、地方議会の選挙の時に、陣中見舞い、当選祝いといってお金を渡していたというので、普通は立件が難しいようです。ただ、今回逮捕に至ったのは、もらった側が買収のお金を受け取ったと告白している、証言しているからです。なぜ証言しているのかは、はっきりとしたことは分かりませんが、司法取引でもあったのではないか、あなたは逮捕しないから証言してほしい、ということがあったのではないか、とも言われています。実際に立件されるのか、有罪になるのかはまだ分かりません。

なぜこのような話をしたのかといえば、聖書の語る罪とは何なんだろう、と考えたからです。あの夫婦がたとえ立件されなかったとしても、無罪だったとしても、聖書で語られる意味での、罪はなかったのだろうか。聖書の語る罪というのは、何というか、胸に手を当てて考えなさい、とか、お天道様が見てるとか、それに近いものです。神の前に立って感じる罪です。洗礼者ヨハネが現れたとき、ファリサイ派や律法学者も、ヨハネの洗礼を受けるために来たといいます。買収は極端すぎますが、律法に関しても、こうすれば大丈夫とか、あとであの儀式をすればよいとか、本質から離れた慣習のようなものが出来上がっていたかもしれません。しかし、ヨハネの荒野で叫ぶ声には、神の前に立つ畏れを感じさせるものがあったかもしれません。ただそのヨハネも、最後には処刑されていきます。その後にイエスさまが現れ、人間はすべて罪人であること、しかし、その罪は赦され、悔い改め続けて生きることが赦されていることを語っていきます。しかし、そのイエスさまもやがて十字架にかけられていきます。赦しを語り、罪人と共に食事をするイエスさまには甘すぎるといい、悔い改めを語るヨハネには厳しすぎるという。

 

『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』

ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。

 

人は神の声を聴くことができます。隣人愛を教える、善きサマリア人のたとえで、祭司やレビ人は、倒れている人を助けませんでした。しかし、ユダヤ人と敵対しているサマリア人は助けました。なぜ助けたのか、倒れているユダヤ人を見て、憐れに思ったから、胸が痛んだからだと書かれています。聖書の知識ならば、祭司やレビ人のほうがあったでしょう。しかし、サマリア人は、心に響く神の声に従ったんです。私たちは本当は、良いことも悪いことも、神のみ旨も、神のみ旨ではないことも、よく分かっているときがあります。でも、その声に従っては生きてはいません。私たちは大人になって、随分言い訳がうまくなってしまった。随分ごまかしがうまくなってしまった。

キリスト者とは、言い訳をやめたりごまかしをやめる人間ではありません。それはやめられはしません。ただ、それを認めたものです。自分の弱さ、罪深さを認めたものです。

イエスさまは言います。

 

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

じつは、言い訳はしんどいんです。ごまかし続けるのはしんどいんです。河合夫婦も、素直に認めたら楽になれると思います。素直に認め、悔い改めたなら、神さまは新しい道を示してくれると思います。

疲れたもの、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい、と言ってくださっています。休ませてあげよう、そう言っています。でも、休ませ方が、だいぶ変わっています。わたしの軛を負いなさい、といいます。軛というのは、牛や馬にはめる、馬車を引くときとかのために木製の首輪です。あんまり休めそうにもないものです。ただ、ここでいうイエスさまの軛を負うというのは、イエスさまに学ぶこと、イエスさまの姿を見続けることです。イエスさまの姿を見て、学び続けるということです。イエスさまの姿とは具体的に言うと、たくさんありますけど、ここに書かれているのは、柔和で謙遜な姿です。そうすれば、安らぎを得られるといいます。それはよく分かる気がします。生きることがしんどくなってきたときは、柔和さや謙遜な思いを忘れているとき。イエスさまのもとに行き、その柔和さと謙遜さに触れるとき、重荷は軽くなり、安らぎが得られるといいます。私たちはすぐに忘れ、すぐにそのイエスさまと離れてしまうから、イエスさまは私たちを軛でつなぐといいます。

時々、キリスト教ではやっちゃいけないこととか、しなきゃいけないこととかあるんですか、って聞かれることがあります。そう聞かれると、あまりないなあ、と思ってしまう。相手は期待してるのに、あまり期待に応えてあげられないとよく思います。でも、キリスト者にしなければならないことがあるとすれば、イエスさまを見続けること、そして、イエスさまのように柔和で謙遜であることです。あなたには、柔和で謙遜であるという軛がはめられています。その軛は、あなたの生き方を楽にさせ、安らぎを与えるものです。イエスさまと共に、柔和で謙遜に一週間を過ごしましょう。