No.11

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2020年7月12日 日聖霊降臨後第6主日

マタイ福音書13章1~9 18~23節 「 徒労に慣れなさい 」 吉田達臣

13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。13:2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。13:3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。13:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。13:9 耳のある者は聞きなさい。」

「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

今日の聖書の日課、正直に言いますが、よく理解できませんでした。とは言っても、今日の日課、書かれていることが複雑で、意味がつながらない、という意味ではありません。むしろ、福音書の中でも、書いている内容はとても分かりやすいほうだと思います。イエスさまがたとえで、ある人が種をまいた。ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。イエスさまが後半で、自ら解き明かしをしてくれています。心の中にみ言葉の種をまいたけど、悪いものに奪われてしまった人。他の種は石だらけのところに落ち、土が少ないので、すぐに芽を出したが、根がないので枯れてしまった。これはみ言葉を聞いてすぐに喜んで受け入れたが、根がなく、すぐにつまずいてしまう人。ある種は茨の間に落ち、茨が成長をふさいでしまった。これは、み言葉を聞くが、世の喜びや、困難のせいで、実りに至らない人。しかし、良い土地にまかれた種は、実を結んで、100倍もの実りをもたらす。これは、み言葉を悟る人だといいます。すごく良く分かる。何が理解できないかというと、じゃあ、自分もみ言葉を悟る人になろう、と思う。そのためにどうすればよいのか、今日の日課で飛ばされた箇所に詳しくのっていますが、それを読むとみ言葉を悟ることができる人は、神にそれを悟ることが許されている人だ、って言うんです。これは、人間の側にはできることがないって言ってるんです。神さまに、悟ることが許されるように、祈るしかないんです。私が理解できないのは、神さまがなぜ、すべての人に悟るようにして下さらないのか、ということなんです。このたとえ話は、み言葉を悟るための助言ではなく、この世の実態をたとえを用いて話しているだけなんです。なぜ、み言葉が、多くの人に届かないのか、それを説明しているだけで、何の助言もしていないんです。ルターの恵みのみって、人間の側にはできることがないっていう意味でもあるんです。

先週ルターの、「奴隷意志について」という本を読んだんです。私たちの教会の基であるルターはたくさんの著作を残しましたけど、自分から見て、後世に残していいのは2冊だけ、「小教理問答書」と、「奴隷意志について」そう語ったといわれています。重要な書物だと思い、神学生の時から、何度か読んでみましたが、正直よく分からない。というより全然わかりませんでした。ただ、先週久しぶりに読んで、少し心に残るものがありました。この本が書かれたきっかけは、エラスムスという人文主義者が、「自由意志論」という本で、ルターを批判したんです。ルターの信仰は恵みのみ、という信仰です。一方的な神の働きによって、人は救われる、そう説いた。しかし、エラスムスは、人間の意志も救いに関わると語った。人間には自由な意思があり、人間の意志も救いに関わる、そう語ったんです。それに応答して出されたのが、「奴隷意志論」、「奴隷意志について」です。ルターはまず、人間には、自由な意志があるのではなく、とても頼りない、移ろいやすい意志があるだけだといいます。そして、この2番目の主張が、私の心に響いたのですが、神の救い、神の恵みは、理解不可能なものだと語るんです。少し本文を読みます。

この命あるいは永遠の救いは、人間には理解不可能なものである。パウロがコリントの信徒への手紙一の2章9節でイザヤを引用して、「目が見えず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された。」と語っている通りである。

この後に、永遠の命を信ず、と私たちは唱えるが、これもコリントを引用しながら、神の霊の働きがなければ、明らかにされないことだといいます。続けて、パウロがアテネで復活の話を始めたとき、その話はあとで聞こうといって、多くの人が去っていった話をします。

わたしが改めて感じたことは、神さまは、私たちの理解を超えた存在で、理解できる方ではなく、信じる存在であるということです。カントという人が、永遠の命、永遠の救い、永遠の愛、こういうものは理性の範囲を超えるもの、信仰の領域、理解はできないが、心惹かれ、憧れるものだと語ります。

神さまがなぜ、もっと多くの人の心を開いてくださらないのか、私には分かりません。おそらく、私たちの思いを超えた意図があるのでしょう。ある牧師は言います。イエスさまはここで、弟子たちが宣教を始めたとき、心が折れないように、これを語ってくださったのではないか。宣教をがんばっても、思うような結果はなかなか生まれない。今日の説教題は、私が神学生の頃、宣教研修に出る前に、多くの仲間から、寄せ書きを書いてもらいました。神学校を離れ、教会の現場に7か月間実習する。その寄せ書きに、このプログラムの担当の先生、教会実習の担当の先生が書いてくれた言葉で、「徒労に慣れなさい」と書かれていました。神学生、やる気満々で現場に出ても、一生懸命やっても、徒労に終わることが多い。宣教をしても、牧会をしても、愛の業をしても、学生が頭で考えているより、現場は甘くない。無駄に終わることが実に多い。ダメになることが実に多い。私たちの周りの人で、心配な人がいる。言葉をかける世話をする。少し順調にいっているかと思うと、また、裏切られるような思いをする。私たちの人生、徒労が実に多いものです。でも、心折れてはならないと、聖書は語ります。いろいろなものが、様々な理由でダメになっても、ほんの一つ届くものがあれば、ほんの一言響く言葉があれば、ずっとダメだったのに、ある日愛が届くとき、そこでは一つのことが変わるだけではなく、あらゆることが変わっていくことがある。一つの種で、一つ実るのではなく、それが30倍、60倍、100倍の実りをもたらす、イエスさまはそう語ります。その一つのために、今週もたくさんの徒労を重ねていきたいと思います。