個人で礼拝を守るにあたって
〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。
2020年7月26日 聖霊降臨後第8主日
マタイ福音書13章24~35節 「 隠された宝 」 吉田達臣
イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
これは私の場合なので、皆さんは違うかもしれないのですが、時々、思いもかけないことで褒められることがあります。全く自覚症状はないのですが、思いもかけない部分を褒められる。褒められると、悪い気はしないもので、あの人勘違いしているかもしれないけど、まあ、そのまま勘違いしておいてもらおう、と思ったりします。それがほかの人からも、同じように言われる。すると、ああ、今まで自分では気づいていなかったけど、本当に自分にはこういう面があるんだと、思い始める。すると、私の場合、少しいい気になって、少しヤな奴になるんです。少し傲慢になる。わたしのような人間は、気づかないうちに良い面を持っている方がいいと思うことがあります。
今日の福音書は、イエスさまのたとえ話です。いくつものたとえ話が語れていますが、共通することがあって、宝というのは、見つけにくいものだということです。畑の中に隠れていたり、粉に混ぜられたパン種、というのが出てきますが、混ぜるという言葉の中に、隠す、という意味が含まれているといわれます。混ぜてしまえば分からない。飲み物に毒を混ぜる、というのは、飲み物に毒を隠す、ということでもあります。混ぜられると見つからない、見分けにくいものです。見えたとしても、からし種程の大きさで、種も小さいものですが、その種の中でも、最も小さいのがからし種です。とても見つけにくいものです。これは、何を意味しているか、神さまの与えられた恵み、神さまの与えられた宝というのは、一見分からない、一見見つけにくいものだ、という考え方があります。確かにそうです。十戒の内容を初めて知った時、拍子抜けしたことを覚えています。後代に残すため、燃えてもなくならないように石板に刻まれ、丁重に扱われ、神殿の至聖所に保管されている、その教えは、殺してはならないとか、盗んではならないとか、うそをついてはならないとか、キリスト教的に要約すれば、心を尽くして神を愛し、自分を愛するように隣人を愛すること。なんだそんなことか、と思った記憶があります。イエス様ご自身も、大工の家に生まれ、苦しみを受け、十字架にかけられた方です。宝のようには見えない方です。でも、ここに本当の宝がある。すべてのものを捨ててでも手に入れるべきものである。聖書は、そう教える。そういう見方があります。これも、決して間違った見方ではなく、大事な見方です。
でもある牧師は、こう語ります。このたとえには少し不思議なことがある。畑に宝を見つけたなら、全財産をはたいて、畑ごと買い取る必要があるだろうか。宝だけ持って帰ればいいじゃないか。まあ、見つかったら畑の持ち主に訴えられる、という可能性もあるのかもしれませんが、随分不思議な仕方でもあります。こんな不思議な仕方をする方を、私たちは知っています。それは、神さまです。
あなたは、人に気付かれていない、自分でも気づいていない宝を秘めている。イエスさまだけは、それを知っています。だからあなたを丸ごと買い取るのです。あなたは、自分では、良いところなど、ないと思っている。しかし、神さまは、あなたの宝に気付いて、あなたごと買い取ったんです。自分には、からし種程の良さしかないと、自分では思っているかもしれない、しかし、神さまには、それがどれだけの可能性を秘めているか知っているんです。あなたは悪いところもたくさんある。でも神さまは、良い魚も、悪い魚も網ごと買い取られます。あなたには確かに、人からも評価され、自分でも自覚している真珠のような良い宝があります。でも、それは、あなたが感じ、人が評価している以上に、もっともっと価値のあるものなんです。神さまは、全財産をはたいてでも、あなたを手に入れようとなさる。イエスさまは、自分の命を投げ出してでも、あなたを手に入れようとなさる。あなたは、神さまから見て、宝ものなんです。
正直、自分では、自分にどんな価値があるのか分からない。だから不安になります。神さまに具体的に、どんな価値があるのか、教えてもらいたいと思うことがあります。でも、教えてくれない。教えてくれないことにも、神さまの深い配慮があるのかもしれません。人は、自覚した途端、良さが失われることがあるからです。それよりも、神さまにとって、あなたは、ひとり語の命を差し出してでも贖おうとした、そんな宝に見えている、そのことを信じて歩みましょう。