No.15

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2020年8月16日 聖霊降臨後第11主日(緑)

マタイ福音書15章21~28節 「 今居る場所から祈る 」 吉田達臣

15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 15:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 15:25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 15:26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 15:27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 

先週映画を見に行きました。「アルプススタンドのはしのほう」という映画で、原作は、高校演劇の台本です。高校野球、甲子園の一回戦、全校応援なので、野球のルールもよくわからないが、仕方なく来ている演劇部の女生徒二人と野球部を途中で辞めた男性一人と、少し離れたところにいる勉強はできるが大人しい、女生徒一人がアルプススタンドのはしのほうで会話をする、会話劇です。この四人の会話で、色々なことが明らかになっていきます。演劇部の一人は、おそらくその部の中心で、自分で脚本を書き、去年は関東大会まですすんだと言います。しかし、その関東大会では上演できなかった。部員の一人がインフルエンザになったからです。もう一人の演劇部の女生徒が、どうやらインフルエンザになった部員なんです。それまで、よく気がつき、友人の分までお茶を買いに行ったり、そのお茶が子のみの物出ないと感じたら、お茶を買い直そうとしたり、しているのが、よく気がつくのではなく、インフルエンザになってから、ずっとその友人に申し訳ない思いを抱き続けている。野球部を辞めた男子学生は、ピッチャーで、公立の高校を甲子園まで導いたエースの子と競っていた。でも、明らかに才能が違い、同じ練習をしていてもどんどん差が開いていく。もう一人野球部に、矢野君という子が居て、今ベンチ入りしているけど、とても下手くそで、試合になんか出られない。それなのに野球が大好きで、試合にも出られないのに、一生懸命練習する。やめた男子学生は、才能も中途半端で、努力も中途半端、それで野球部を辞めたことがわかっていきます。勉強のできる子は、ずっと一番だったのに、最近二番になった子で、どうやら、エースピッチャーの子に憧れている。でも、会話がすすんでいくうちに、そのエースの子は、今応援演奏をしている、吹奏楽部の部長で、勉強で一番を奪われた女生徒と付き合っていることがわかっていく。野球も一回戦で、甲子園常連校とあたり、4対0で負けている。映画の前半は、しょうがない、という言葉がキーワードになっていきます。

わたしたちは記憶が改ざんされていて、若い頃はずっと楽しかったような気がしています。でも、高校生の頃ってすごく悩んでいたし、劣等感をこじらせていました。自分も優れていると思っていたことに、さらにすごい人に出会う。部活でレギュラーになれなくて傷つき、努力していたことが思いも掛けないことでふいになり、悔しい思いをする。勉強で悩み、恋愛で傷つく。現実の自分と折り合いをつけることに、ずいぶん苦しむ時期です。しょうがない、といっていた四人ですが、噂していた下手くそだけど、一生懸命練習する矢野君が代打で出てくる。それで送りバントを決めて、笑顔でベンチに戻ってきます。それをみて四人は、まだ、この試合は終わっていない。今からしょうがないという必要はないと思い、応援し始めます。

今日の福音書は、カナンの女性、異邦人の女性の話です。娘が悪霊に取り憑かれている。イエスさまが近くまで来ていることを聞きつけて、イエスさまに娘を助けてくれるよう願います。しかし、イエスさまは沈黙を続けます。それもなお願っていると、イエスさまは、「わたしはイスラエルの失われた家にしか遣わされていない」と断られます。しかしなお、この女性は願い続ける。すると、イエスさまは、子どもたちのパンを子犬にやってはいけないと言います。

イエスさまは、この世にいる残された時間がわずかであることを知っていました。パウロが異邦の地でユダヤ人街から伝道を始めたように、旧約聖書の土台があるユダヤ人に、本当の神の福音を伝えていました。パンがたくさんあれば、子犬にもパンをあげます。しかし、残されたパンが残りわずかであれば、子犬にあげる前に、子どもにあげるものです。

しかし、この女性は「主よ、ごもっともです。」まずそう言います。次に、「しかし、子犬も、主人の食卓から落ちるパンくずはいただく」そう言います。この女性は、神の選びを肯定します。自分が選ばれていないことを受け入れます。

わたしたちも、自分が特別ではないことに気づいてきました。あそこには、自分の望む全てを持っているような人がいる。しかし、自分は中途半端なものしか、持っていない。神さまは、わたしにこれだけのものしか与えてくれなかった。そのことを少しずつ受け入れながら生きてきました。自分はもっと良い場所に立ちたかった。でも、ようやく今居る自分の場所をなんとか受け入れてきました。神さまに与えられた場所に、折り合いをつけてきました。

このカナンの女性は、神さまの選びを受け入れながら、しかし、なおイエスさまに望み続けました。諦めきれない、自分の願いを、イエスさまに願い続けました。するとイエスさまは言います。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」

わたしたちは、もっと多くを望んでいたのに、与えられなかった自分の人生に折り合いをつけて生きてきました。それでも、神の愛は変わらない、そのことを信じて生きてきました。しかし、神さまはなお語ります。全てを諦め、全てに折り合いをつけるのではなく、今居る場所から、なお心から消えない願いを祈りに変えなさい。今居る場所から、なお求め続けなさい。なお願い続けなさい。何度跳ね返されても、祈り続けなさい。神さまは、その祈りを待っておられます。

今居る場所に不平を言うのではなく、今居る場所から、なお神さまを信じて求め続け、願い続け、祈り続けていきましょう。