No.16

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2020年8月23日聖霊降臨後第12主日

マタイ福音書16章13~20節 「 それでも大丈夫 」 吉田達臣

16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

 

私の母教会は、この札幌中央ルーテル教会です。29年前、約30年前、この教会に通い始めました。それほど、礼拝を休むということはなかったと思います。ほぼ毎週来ていました。それでも、3年洗礼を受けませんでした。なぜなのかと今思い返してみると、よく分かりません。おそらく一生信じるという確信が持てなかったのだと思います。ではなぜ3年たったら、洗礼を受けても良いと思ったのか、実はそれもよく分からないんです。それまでも何度か、洗礼受ければいいじゃない、って言われたことがありましたけど、いやいや、と何となくごまかしていました。でも、その時は、洗礼を受けてもいいか、そう思っただけなんです。そんな自分が、牧師をやっていることを、今でも時々、不思議に感じます。

今日の福音書の箇所は、福音書の分水嶺、大きな分かれ目、峠の頂点とも言われる箇所です。

まずイエスさまは、弟子たちに、人々は私のことを何者だといっているかを聞きます。弟子たちは口々に、洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、エレミヤの再来だ、などと言っている人がいることを告げます。するとその後に、では、あなた自身は、私を何者だと思うのかを聞きます。他の人が、どう言っているかではなく、あなた自身の思いです。すると、ペトロは、誰かの生まれ変わりでもなく、ただの預言者でもなく、あなたはメシア、メシアはヘブライ語です。ギリシャ語にするとキリスト。日本語にすると救い主、あなたは救い主、救世主であり、生ける神の子、そう語ります。最初の信仰告白です。最初の告白、最初に誰も言っていない意見を言うのは、勇気がいるものです。実は私もそう思っていた、そうあとで追随するのは、難しくありません。でも、ペトロは最初に語りました。するとイエスさまは言います。シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、天の父、神なのだと。あなたにイエスを救い主であると気づかせたのは、神なのだといいます。つまり、信仰を与えたのは、天の父なる神なのだと。そしてイエスさまは、ペトロに、ペトロとは最初からの名前ではなく、恐らくは、この時名付けられた名前で、元はシモン、岩という意味を持つペトロという名をこの時与えられました。あなたの岩の上に教会をたてる。そう語ります。ここまで続く、私たちの教会は、このペトロという岩を土台にして立っている。しかし、聖書を読んでいる人なら、少し?が出てきます。実際のペトロは、揺れ動く人です。とても岩とは言えない。2週ほど前の日課ですが、嵐の中で、湖上でこぎ悩む弟子たちを助けに来たイエスさまを見て、最初は幽霊だと怖がり、イエスさまだと気づいて勇気百倍、あなたが命じてくれたら水の上も歩ける、そう言って実際に歩きだす、しかし、強い風が吹いて沈みかける。それがペトロでした。今日の箇所の次の箇所を見ると、イエスさまが初めて、自分の十字架を予告する。するとそんなことがあってはいけないといって、イエスさまをいさめ始め、イエスさまから退けサタン、と言われるのもペトロです。十字架にかかる前日、最後の晩餐の席で、ペトロは明日の朝までに、私に対して3度裏切ると予告されます。ペトロはそれを否定して、たとえ死ぬことになったとしても裏切らない、そう言いますが、イエスさまの言われたとおり、3度裏切りの言葉を吐き、鶏の鳴き声でそれに気づき、泣き崩れたのがペトロです。教会を始めてからも、異邦人の地でパウロと共に伝道をしているとき、イスラエルから、異邦人との交わりに懐疑的な人たちが来ると、前日まで異邦人キリスト者と一緒に食事をしていたのに、その人たちを見て異邦人と同席しなくなったことをパウロに叱責されます。ペトロは、揺れ揺れで、岩でもなければ、土台でもない気がします。しかし、実際に最初の教会のリーダーとなり、現在のバチカンも、今日の聖書の箇所にのっとって、ペトロの墓の上に建てられたものです。

聖書は不思議です。ペトロに限らず、福音書のほとんどは、無理解な弟子の姿が何度も出てきます。パウロも自らを罪人の頭だといい、最初はキリスト者を迫害していたことを語ります。聖書を、イエスさまが直接書いているのなら、愚痴のように、無理解な弟子の姿を描くかもしれません。しかし、実際には、弟子たち自らが、この無理解な姿を語り、自分がサタンと言われ、自分が予告通り裏切ってしまうことを語ります。その証言が元になって聖書ができていきます。

実はここに、キリスト者の本当の強さがあります。この使徒たちの、ペトロの本当の強さがあります。人は自分に自信のない時は、自分を実際以上に大きく見せようとするものです。しかし、本当に強い人は、自分の弱さを隠さないものです。自分の恥を話せる人は本当は強い人です。自分には、こんな失敗があり、こんな弱さがある。それでも、大丈夫、という確信がある。信仰が、自分の意志ならば、本当に頼りないものです。しかし、聖書は教えます。信仰は神さまが与えたもの。あなたが選んだのではなく、神さまがあなたを選んだんです。ならば、ゆるぎないんです。私たちの側が揺らいでも、神さまはゆるぎないんです。ペトロは、それを信じ、使徒たちは、自分が揺らいでも、イエスさまは揺るがない、そのことを感じ取っていきます。

本当は説教題、最初、「こんなやつでも大丈夫」、ってつけようと思っていました。ペトロでも大丈夫。こんな弟子たちでも大丈夫。それで、少しわかりました。なぜ私がキリスト者になり、なぜ私が牧師になったのか。神さまが、私を通して、こんなやつでも大丈夫。そのことを人に伝えようとしたのかもしれません。それならば、なぜ皆さんが、信仰を与えられたのかもわかるでしょう。こんな信仰でも、大丈夫なんです。こんな私でも大丈夫。こんな私でも、救い主は、私を救ってくれる。聖書はそのことを証ししています。ペトロのように、何度躓いても大丈夫です。イエスさまは、あなたを土台にして、教会を建て続けます。自分の選択ではなく、神さまからの選びを信じて歩みましょう。

私の母教会は、この札幌中央ルーテル教会です。29年前、約30年前、この教会に通い始めました。それほど、礼拝を休むということはなかったと思います。ほぼ毎週来ていました。それでも、3年洗礼を受けませんでした。なぜなのかと今思い返してみると、よく分かりません。おそらく一生信じるという確信が持てなかったのだと思います。ではなぜ3年たったら、洗礼を受けても良いと思ったのか、実はそれもよく分からないんです。それまでも何度か、洗礼受ければいいじゃない、って言われたことがありましたけど、いやいや、と何となくごまかしていました。でも、その時は、洗礼を受けてもいいか、そう思っただけなんです。そんな自分が、牧師をやっていることを、今でも時々、不思議に感じます。

今日の福音書の箇所は、福音書の分水嶺、大きな分かれ目、峠の頂点とも言われる箇所です。

まずイエスさまは、弟子たちに、人々は私のことを何者だといっているかを聞きます。弟子たちは口々に、洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、エレミヤの再来だ、などと言っている人がいることを告げます。するとその後に、では、あなた自身は、私を何者だと思うのかを聞きます。他の人が、どう言っているかではなく、あなた自身の思いです。すると、ペトロは、誰かの生まれ変わりでもなく、ただの預言者でもなく、あなたはメシア、メシアはヘブライ語です。ギリシャ語にするとキリスト。日本語にすると救い主、あなたは救い主、救世主であり、生ける神の子、そう語ります。最初の信仰告白です。最初の告白、最初に誰も言っていない意見を言うのは、勇気がいるものです。実は私もそう思っていた、そうあとで追随するのは、難しくありません。でも、ペトロは最初に語りました。するとイエスさまは言います。シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、天の父、神なのだと。あなたにイエスを救い主であると気づかせたのは、神なのだといいます。つまり、信仰を与えたのは、天の父なる神なのだと。そしてイエスさまは、ペトロに、ペトロとは最初からの名前ではなく、恐らくは、この時名付けられた名前で、元はシモン、岩という意味を持つペトロという名をこの時与えられました。あなたの岩の上に教会をたてる。そう語ります。ここまで続く、私たちの教会は、このペトロという岩を土台にして立っている。しかし、聖書を読んでいる人なら、少し?が出てきます。実際のペトロは、揺れ動く人です。とても岩とは言えない。2週ほど前の日課ですが、嵐の中で、湖上でこぎ悩む弟子たちを助けに来たイエスさまを見て、最初は幽霊だと怖がり、イエスさまだと気づいて勇気百倍、あなたが命じてくれたら水の上も歩ける、そう言って実際に歩きだす、しかし、強い風が吹いて沈みかける。それがペトロでした。今日の箇所の次の箇所を見ると、イエスさまが初めて、自分の十字架を予告する。するとそんなことがあってはいけないといって、イエスさまをいさめ始め、イエスさまから退けサタン、と言われるのもペトロです。十字架にかかる前日、最後の晩餐の席で、ペトロは明日の朝までに、私に対して3度裏切ると予告されます。ペトロはそれを否定して、たとえ死ぬことになったとしても裏切らない、そう言いますが、イエスさまの言われたとおり、3度裏切りの言葉を吐き、鶏の鳴き声でそれに気づき、泣き崩れたのがペトロです。教会を始めてからも、異邦人の地でパウロと共に伝道をしているとき、イスラエルから、異邦人との交わりに懐疑的な人たちが来ると、前日まで異邦人キリスト者と一緒に食事をしていたのに、その人たちを見て異邦人と同席しなくなったことをパウロに叱責されます。ペトロは、揺れ揺れで、岩でもなければ、土台でもない気がします。しかし、実際に最初の教会のリーダーとなり、現在のバチカンも、今日の聖書の箇所にのっとって、ペトロの墓の上に建てられたものです。

聖書は不思議です。ペトロに限らず、福音書のほとんどは、無理解な弟子の姿が何度も出てきます。パウロも自らを罪人の頭だといい、最初はキリスト者を迫害していたことを語ります。聖書を、イエスさまが直接書いているのなら、愚痴のように、無理解な弟子の姿を描くかもしれません。しかし、実際には、弟子たち自らが、この無理解な姿を語り、自分がサタンと言われ、自分が予告通り裏切ってしまうことを語ります。その証言が元になって聖書ができていきます。

実はここに、キリスト者の本当の強さがあります。この使徒たちの、ペトロの本当の強さがあります。人は自分に自信のない時は、自分を実際以上に大きく見せようとするものです。しかし、本当に強い人は、自分の弱さを隠さないものです。自分の恥を話せる人は本当は強い人です。自分には、こんな失敗があり、こんな弱さがある。それでも、大丈夫、という確信がある。信仰が、自分の意志ならば、本当に頼りないものです。しかし、聖書は教えます。信仰は神さまが与えたもの。あなたが選んだのではなく、神さまがあなたを選んだんです。ならば、ゆるぎないんです。私たちの側が揺らいでも、神さまはゆるぎないんです。ペトロは、それを信じ、使徒たちは、自分が揺らいでも、イエスさまは揺るがない、そのことを感じ取っていきます。

本当は説教題、最初、「こんなやつでも大丈夫」、ってつけようと思っていました。ペトロでも大丈夫。こんな弟子たちでも大丈夫。それで、少しわかりました。なぜ私がキリスト者になり、なぜ私が牧師になったのか。神さまが、私を通して、こんなやつでも大丈夫。そのことを人に伝えようとしたのかもしれません。それならば、なぜ皆さんが、信仰を与えられたのかもわかるでしょう。こんな信仰でも、大丈夫なんです。こんな私でも大丈夫。こんな私でも、救い主は、私を救ってくれる。聖書はそのことを証ししています。ペトロのように、何度躓いても大丈夫です。イエスさまは、あなたを土台にして、教会を建て続けます。自分の選択ではなく、神さまからの選びを信じて歩みましょう。