No.17

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2020.8.30(日) 聖霊降臨後第13主日(典礼色:緑)

マタイ福音書16章21~28節 「 人間のことを思って、神のことを思わない 」 粂井 豊

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
(一コリントの信徒への手紙1章3節)

 

先週の礼拝説教となった福音書の箇所を覚えておられますか。少し振り返ってみます。イエスさまが弟子たちに「人々は私のことを何者と言っているか」と問われると、弟子たちは「洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人」などと言っていますと応えます。すると、イエスさまは「それでは、あなた方はわたしを何者だと言うのか」と再び、弟子たちに尋ねます。そのイエスさまの問いかけに、弟子たちを代表するかのように、ペテロが「あなたは、メシア、生ける神の子です」と答え、その答えを聞いたイエスさまは、「あなたは幸いだ。あなたの上に教会を建て、陰府の力もこれに対抗できない。また、あなたに天国の鍵を授ける」とまで言われたという話です。

この話を通して、私たちは、自分がイエスさまのことを何と言うかということの大切をあらためて覚えさせられたと思います。

先週の吉田牧師の説教の中でも言われていましたが、メシアという言葉はヘブル語で、日本語に直訳すると油注がれた者ということです。それを意訳すると”救い主”という意味で、ギリシャ語では、キリストです。誤解されて理解されがちですが、イエス・キリストとは固有名詞ではありません。救い主であるイエスということです。

ペテロは、イエスさまこそ救い主である生ける神の子ですと、しっかり答えることができました。ところが、今日の福音書は、そのペテロに、イエスさまが「サタン、引き下がれ」と叱責された箇所です。どうして、叱責されたかと言うと、イエスさまが、これから進むご自分の道は、長老、祭司長、律法学者から苦しみを受け、殺され、三日目に復活する歩みであることを打ち明けられた時、ペテロが、あわててイエスさまを脇にお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスさまをいさめたからです。ペテロは、イエスさまがわざわざ危険な目にあうところに行って殺されるようなことがあってはならないと思ったからでしょう。イエスさまは、そのようなペテロの心情が分からなかったわけはないと思います。にもかかわらず、イエスさまは、いさめるペテロに「サタン、引き下がれ」と言われただけでなく、「あなたは私の邪魔する者であり、神さまのことを思わず、人間のことを思っている。」とお叱りの言葉を述べられたのです。お叱りの言葉を受けた、ペテロの気持ちはどうだったでしょうか。すんなり納得がいったのでしょうか。多分、ペテロは叱責される意味は分からなかったのではないかと思います。イエスさまは、受難の予告をこの後、二度もなさいます。合計、三度も受難の予告をペテロたちは聞いたのです。にもかかわらず、ペテロをはじめ弟子たちは、その予告の意味を真に受け止めることができなかったのです。ペテロは、イエスさまに「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と豪語するだけでなく、「たとえご一緒に死なねば成らなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とまで言い切ったのです。ところが、イエスさまが十字架につけられて行く時、そのイエスさまを見捨てて逃げ出してしまったのです。ペテロは、豪語した言葉などなかったように、人々が、「この人は、イエスさまの仲間だ」と言うと、呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」とまで言ってイエスさまを見捨ていったのです。

ペテロがイエスさまの受難予告を真に理解したのは、見捨てたイエスさまが死に、そのイエスさまを見捨てた現実を直視させられる体験をしてからです。イエスさまは十字架上で、権力や人々の手によって無残にも殺されて行ったのです。十字架上で奇跡は起こらなかったのです。水戸黄門のドラマのように、最後に「この紋所が見えないのか、下がれ、下がれ、頭が高い」と言って悪人が成敗され、溜飲が下がるようにはならなかったのです。しかし、そのイエスさま死の出来事がペテロにとって大切な救いとなったのは、イエスさまを裏切る自分を通して、自分の弱さ、もろさ、愚かさ、いや、それだけでなく、自分のおごり、高ぶり、ねたみ、等々、自分の利益を求める、あえて言わせてもらうと、自己を神としてしまっていることさえ気づかない自分の罪を見つめることができていったからです。ヨブ記の最初にサタンが登場し、サタンは、神さまに向かって「人は、利益もないのに神を敬うでしょうか」と問いかけています。自分の思いや考えが納得する立ち方は、このヨブ記のサタンの考え方に尽きると思います。人の心は、結局のところ、自分の利益のために神さえも利用しようとするだけの打算的な存在だ、とヨブ記のサタンは言います。ペテロは、イエスさまを見捨てる現実を直視させられるまで、自分の問題が、このサタンのいうような思いの中にあるということに気づかなかったのです。

イエスさまは、ペテロを叱責されたすぐ後に、ペテロを含めた弟子たちに、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか、自分の命を救いたいと思う者は、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言われました。

自分の命とは、どういうことでしょうか。私たちが、生きるということはどういうことでしょうか。私たちは、自分が衣食住に満たされ、何の問題もなく、順風満帆に歩むことができることができることが生きるかのように思います。生まれて来た限り、誰しも自分の幸せを願い、幸せを得るために、勉強し、そのことによってより豊かな人生があるように思います。しかし、人生は順風満帆とはいきません。思うようにならない、挫折や、苦しみ、悲しみに、襲われることしばしばです。また、順風満帆に過ごして居ることの中に意義や意味を見いだせず虚しさを覚え、行き詰まってしまうことが起こります。そのような時になって、あらためて生きること、自分の命について考えるというようなことが起こります。そして、自分の人生が、自分にとっての都合のよい生活になるようにと乞い求めることや、また、自分なりに納得し意味づけができる人生があたえられるように生きようとします。しかし、結局は、それも、上述したサタンの願っている心であることにきづかされるのです。

そんな私たちに、イエスさまはそこに救いがあるだろうか、と問いかけながら、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」といわれています。自分の十字架とは、どういうことでしょうか。ペテロのことを考えてみれば、ペテロが気づいた、自分の失敗、おごり高ぶりです。おごりや、高ぶり、失敗の中に、自分の貧しさ、無力さ、があることに気づかされるのです。イエスさまは、その自分自身の貧しさ、愚かさ、弱さを見据えながら、その自分の問題性をイエスさまの手の中にゆだねて従ってくるように言われているのです。教会の岩となり、天国の鍵を授けられたペテロは、十字架上でイエスさまを裏切ったという失敗だけでなく、その後も繰り返し、失敗し、その都度、今まで自覚したと思っていた以上の弱さ、貧しさ、愚かさを感じさせられながらも、それをイエスに預けて従う歩みをしたのです。

人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守られるように。(フィリピの信徒への手紙4章7節)アーメン。