No.22

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2020年10月4日  聖霊降臨後第18主ヒ

マタイ福音書21章33~46節 「 感謝 」 吉田達臣

21:33 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 21:34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。 21:35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。 21:36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 21:37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 21:38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 21:39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。 21:40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 21:41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」 21:42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、
わたしたちの目には不思議に見える。』
21:43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 21:44 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

  今日の例え話、要約すると、あるぶどう園の主人が、環境を全て整えて、農夫たちに貸して旅に出る。収穫の時期に、収穫の分け前を受け取るため僕を送りますが、農夫たちは出し惜しみ、その僕を殺してしまう。もっと僕を送るが同じ目に遭う。最後に息子を送る。息子なら敬ってくれるかもしれない、そう考えたからです。でも、息子も殺される。そこでイエスさまは尋ねる、この主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか。聞いていた人たちは答えます。この悪い農夫たちをひどい目に遭わせて殺し、きちんと収穫を収める農夫に貸すと。

これはイスラエルのことが語られていると言われています。エジプトで奴隷であったユダヤ人が、神さまの不思議な導きにより、約束の地で自分たちの国を作る。不思議な守りで強く、豊かな国になる。それは神さまがこのイスラエルが世界の中で祝福の源となるように。人を愛することを教え、小さな者を大切にすること広げていくように作った国です。しかし、イスラエルは、自分が豊になると、小さなものを大事にしなくなる。自分のことばかりを考えるようになる。収益をより多く確保することばかりを考えるようになる。預言者を送って警告するが、ことごとく預言者を迫害し、殺してしまう。最後に息子ならば敬ってくれるかもしれない、そう思って神の子を送り込むが、今やその神の子を十字架につけようとしています。ですから、最後に、祭司長や、ファリサイ派の人たちは、自分たちのことを言っていると思い、イエスを捕らえようとしたと書かれています。

私この譬えを初めて読んだとき、違和感を持ちました。その違和感というのは、やられていて、またやられて、さらにやられて、でも最後は圧倒的な力の差で逆転してねじ伏せていく。そんなことできるなら、もっと早くその力を使えば良いのに、そう思った違和感です。

この箇所を読んでいくと、おそらくは、このぶどう園の主人は、収穫そのものに興味があるわけではない気がします。もしその気なら、僕などたくさん送り込まずに、もっと早い段階でこの農夫たちをクビにして、殺してしまえば良い。しかし、この主人は、息子まで送り出す、息子ならば敬ってくれるかもしれない、そう期待を掛けています。その息子も殺されてしまいますが、最後まで農夫たちとの関係を修復しようとしています。

この主人が望んでいるのは、収穫ではなく、良い関係です。自分が良い環境を整えてあげる。そこで信頼している農夫たちが思う存分力を発揮し、この環境を整えてくれた方に感謝する。

以前聞いた話で、学校に、給食費を払っているんだから、いただきますって、言う必要がないと、申し入れた親がいたそうです。食事というのは、肉にしろ、魚にしろ、野菜にしろ、命をいただいている。だから、いただきますという、そう答えたそうです。ただ、極端な例ではありますが、現在を象徴する感覚のような気もします。助け合いがなくても、お金さえあれば、あらゆるサービスが受けられる。アマゾンでポチッとするだけです。手軽で、便利で、割り切れている。ですから、現代の人間は、その感覚に流れている気がします。

でも、人間の喜びって何でしょう。生きる喜びって何でしょう。そこに心が遣われていなければ、本当の喜びは生まれないものです。

このぶどう園の主人は、収穫そのものを求めたわけではありません。ならば、最初の僕が殺された時点で、強硬措置を執ることができたんです。でも、そうはしなかった。なんとか関係を取り戻そうとした。こんなに僕が殺されているのに、息子ならば敬ってくれるかもしれない、そう信じて、息子を送り出す。それが、神さまなんです。感謝し合い、信頼し合う関係を作り直そうとしましたし、今もその思いは続いています。感謝し合い、信頼し合う営みが持てないのであれば、あの農夫たちが捨てた石を土台にして、もう一つのぶどう園を作ろうとする、それが神さまです。

コロナを経験した分かったことの一つは、この世界は思っていた以上に弱いということ、不安定だということです。仕事があるって、ありがたいことです。活躍の場があるってありがたいことです。人と会えるってありがたいことです。

与えられているめぐみに感謝しましょう。その恵みを自分のためだけに使うのではなく、神さまに返し、隣人のために使いましょう。10分の9は自分の好きにして良いんです。感謝のために、わずかなものを差し出していきましょう。そうしないと財産を取り上げられるからではありません。感謝し合い、信頼し合う関係の中に、神の国があるからです。生きる喜びがあるからです。あるのが当たり前じゃないって、気づけるだけで、感謝の心は与えられます。感謝して、新しい一週間を始めましょう。