No.23

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2020年10月11日  聖霊降臨後第19主日

マタイ福音書22章1~14節 「 恵まれて 」 吉田達臣

  イエスは、また、たとえを用いて語られた。 2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

  わたしの好きなテレビ番組に、しくじり先生っていうのがあるんですけど、有名人が出てきて、自分のしくじり、失敗を語ってくれ、私みたいにならないでください、っていう話をする番組なんですけど、ある回に多岐川華子っていう人が出てきたんです。多岐川裕美さんの娘さんです。一時期よくテレビに出ていました。子どもの頃から欲しいものは何でも与えられて、飛行機も子どもの頃からファーストクラスに乗っていたそうです。その華子さんが、強い動機というよりは、母親のようにちやほやされたい、というくらいの動機で芸能界に入ったそうです。多岐川裕美の娘ということで、話題性もあって、仕事がどんどん入ってきたそうです。ドラマでもいきなり、主役クラスの役が。でも、そんなもんだと思っていたそうです。ところが、結婚して、すぐに離婚して、週刊誌に多岐川華子の世間知らずぶりが、随分書かれたそうです。その時ショックだったのは、母親への批判も随分書かれたことだといいます。仕事もすっかりなくなり、引退しようと思ったそうですけど、母親に、薄い芸能生活だったかもしれないけど、あなたなりに努力もしたじゃない、ここで逃げたらだめ、そう言われて引退は思いとどまったそうです。今でも、細々と芸能生活は続けているようですけど、週に五日はバイトに出ているそうです。
今になって、芸能界に入りたくても入れない人がたくさんいて、ドラマに出たくても出れないタレントさんがたくさんいて、自分がどれだけ異例の大抜擢をされたのか、自分がものすごく恵まれていたことにやっと気づいたそうです。その恵まれたチャンスを、余り大事にしてこなかった、今ではそう思うそうです。
今日の福音書では、王様が王子の婚礼のため、あらかじめ招待してた人を改めて招いた。しかし、それぞれ用事があると断ったといいます。王は怒ってその人たちを滅ぼしたといいます。滅ぼすのはやりすぎだと思いますが、これは、ユダヤ人のことだろうと言われています。イエスさまが十字架にかかって、40年後、西暦70年にイスラエルはいったん滅びています。マタイはおそらく、ユダヤ人があらかじめ預言されていた神の子メシアを拒否したせいで滅んだ、そう考えたのではないかと言われています。
したがって、次に招かれた客とは教会であり、私たちキリスト者でしょう。王様は、やけくそになったのか、見かけたものは誰でも連れて来いという。善人でも悪人でもいい、そういったといいます。神さま定期的にやけくそになるのか、だれでもいいからっていうタイミングがあって、そのタイミングで私もキリスト者に招かれたのかなあって思うときがあります。自分にはふさわしくない、異例の大抜擢です。どさくさの内に、教会に入れてもらいました。でも、これはもちろん、たとえ話です。神さまは、やけくそで罪人を招いたわけではありません。神さまは憐れんで、私を招いてくださいました。明確な意志を持って、私たちを招いてくれました。王様が私を招いてくれた。神さまがキリストの婚宴に私たちを招いてくれました。ただ、その中に一人、礼服を着ていなかったものがいたといいます。お金持ちも、貧しい人も招いたのなら、用意できなかった人もいるだろうに、とも思うのですが、当時はそのような人のために主催者側が礼服を用意する習慣があったという研究もあるのですが、それに反対する研究もあるんです。まあ、いずれも、本来手に入れることができたのにしなかったのでしょう。この礼服とは何を意味しているのか。おそらくは、神さまの服です。キリストの体と言ってもよいでしょう。第一コリントの中に、朽ちるものが朽ちないものを着る。という言葉が出てきます。私たちはキリストの義をまとうから、救われる。朽ちるものが朽ちないものの体を着るから、永遠の命を与えられる。
先週バイブルクラスが再開しましたが、列王記の復習をしました。イスラエルの歴代の王様の話です。基本ろくな王様がいない。でも、神さまは見捨てない。それはダビデにそう誓ったからだと書かれています。神さまがユダヤ人を見捨てないのも、族長、アブラハム、イサク、ヤコブへの誓いのゆえです。
そして、私たちもキリストにつながったものだから、ただ、それだけの理由で、神さまは決してあなたを見捨てない、そう約束されています。
私たちは、自分が恵まれていることに、どれだけ気づいているでしょうか。自分たちが異例の大抜擢を受けていることに気付いているでしょうか。信仰だけではありません。自分が恵まれていることに、きちんと気づいているでしょうか。不満なことをあげれば、確かに切りがない。でも、今改めて立ち止まり、果たして自分はちっとも恵まれてない、そう言い切れるのか、考え直しても良いと思います。自分は改めて、恵まれている、そう思いその恵みに感謝し、その恵みを大事にする、それが礼服を身にまとうことです。恵まれていることに感謝して、新しい一週間を始めましょう。