No.24

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2020年10月18日  聖霊降臨後第20主日

マタイ福音書22章15~22節 「 神のもの 」 吉田達臣

22:15それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」22 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

 

3年前に生まれつきの茶色い髪を黒く染めさせた学校があり、その問題がクローズアップされたことがあります。ある本によると、意外なことに、そういうブラック校則というのは今では減っていると思っていましたが、かえって増えているそうです。学生のころは、ボーっとしてて、そんなもんかと思っていましたけど、今考えるとおかしな規則はたくさんありました。学校ばかりではなく、そこの内部では通用するおかしなルール、理不尽な習慣はたくさんあります。
日本の中では、キリスト者はマイノリティーですから、考慮に入れられていないこともあります。順番で、自治会の班長が回ってきて、神社のお祭りの寄付を集めなければいけなくなった。自治会長に、私はクリスチャンで、この作業には抵抗がある、と訴えたら、私も仏教徒だけど気にせずやっている、あなたも気にするな、そう言われたそうです。自分の大事にしているものを、大事にする必要はない、そう言われた気分になったそうです。おかしなことは一つ一つ正していかなければなりませんが、でも、今日言って、明日変わるものばかりではありません。
今日の福音書の箇所は、珍しいことが起きていて、本来は仲の悪い、ファリサイ派とヘロデ派という人が手を組んでいます。それには理由があります。聖書には罪人と同格で、徴税人という人が出てきます。徴税人は、イスラエルのために税金を集めていた人ではなく、当時イスラエルを属国支配していたローマ帝国の手先になって、ローマ帝国のための税金を集めていた人です。だから嫌われていました。神の国イスラエルが、ローマに支配されていることに忸怩たる思いがありました。それに、この当時はローマが皇帝制になった直後で、神格化を強引に進めていた時です。そこにもとても抵抗があり、皇帝への税金を納めることが、律法にかなっているか論争になっていた時期でもありました。しかし、一方で、イエスさまが生まれたときの王であるヘロデ大王はローマにおもねって王様にしてもらった人です。ヘロデ派という人たちは、親ローマ派の人たちともいえるでしょう。ですから、ファリサイ派の人はわざわざヘロデ派の人引き連れていき、皇帝への税金を納めるべきかどうかを聞いています。納めるべきだ、と言えば民衆の反発を買う、納めるべきではない、と言えばヘロデ派の人たちに取り押さえられる、どちらに答えても問題が起こるように仕組んだんです。
するとイエスさまは、税金を納めるお金には何が刻まれているか尋ねます。そこにはローマの皇帝の像と名前が刻まれている、そう答えると、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」そう言われます。
わたしのとても好きな小説で、遠藤周作の「沈黙」という小説があります。隠れキリシタンの時代にポルトガルから宣教師がやってくる。隠れキリシタンたちは、とても喜び久しぶりの聖餐式をします。しかし、やがて当局に見つかり、何人もの信徒が隠れキリシタンの疑いをかけられ、踏み絵を踏まされ、拷問にかけられ、死んでいくものも出てきます。ポルトガルの宣教師は、神さまの介入によって事態が好転することを願いますが、事態はどんどん悪化していきます。神さまの沈黙です。そして、最後にその宣教師もつかまります。宣教師は代官から、踏み絵を踏むことを強要されます。しかし、すでに信徒が何人も死んでいる中、自分が生き残ろうとは思っておらず、殉教の覚悟を決めています。しかし、その代官のやり口は、踏み絵を踏まない限り、その宣教師ではなく、一緒につかまった信徒にひどい拷問をかけていきます。どうしたらよいか分からなくなっている宣教師に、踏み絵の中のイエスさまから声が聞こえる。「私を踏みなさい、私を踏みなさい、私は踏まれるためにいるんです。」ずっと沈黙していたイエスさまから、そんな声が聞こえます。宣教師は、踏み絵を踏み、その後仏教の僧侶としての生活を始めます。もちろん、見かけだけです。
踏み絵を踏ませることはできても、その人の心を変えることはできません。イエスさまは言う、踏み絵を踏むことなんて、大したことじゃない。体を殺すことはできても、魂を殺すことのできない人間をおそれることはない。神さまは、魂も、体も生かすことができます。
皇帝への税金なんて、そんなことに屈辱を覚える必要はない。皇帝のものは、皇帝に返しておけ。イエスさまは続けて言います。神のものは神に返しなさい、と。
神さまのものとは何でしょう。神さまのものとは、神さまにかたどられて造られたあなたです。あなたそのものです。皇帝へ税金を納めようが、踏み絵を踏もうが、あなたは私のものです、神さまはそう言われます。
この世で生きていれば、理不尽な目にあうことがあります。時には屈辱的な思いにさせられることもあるかもしれません。でも、あなたは私のものである、神さまはそう言われます。だれも神さまからあなたを奪うことはできません。そのことを信じて、新しい一週間を歩みましょう。