No.25

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2020年10月25日  聖霊降臨後第21主日

マタイ福音書22章34~46節 「 分からないけど、分かりたい 」 吉田達臣

22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」41 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。42 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、43 イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
44 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
45 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」46 これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。

 

たまにお世辞で、吉田先生の説教分かりやすい、と言ってくれる人がいるんですけど、その中の何人かの人に、でも分かりやすいって言うだけじゃだめだ、って言われたことがあるんです。じゃあ、どうしたらいいのか聞いてみると、その人も何かはっきり言えないらしくて、でも、何かが足りない、っていう感覚はあるみたいなんです。
そしたら、コロナで時間のあるころ、たくさんDVDを借りて、映画やドラマを見ていたんですけど、その行為自体が飽きてきて、一応見てるけど、真剣に見てないんです。結構多くのものが、結末は大体予想がついていて、事件は大概解決するんだけど、それがどういう道のりで解決していくのかが、面白さなんですけど、もうだんだん、どうせ事件は解決するんだろ、どうせこっちが勝つんだろ、と思いながら見るようになってたんです。そんな中で、名古屋のテレビ局が作ったドラマで、「本気のしるし」というドラマがあって、それが久しぶりに、この先どうなるんだろう、と思い続けてみてたんです。主人公の女性は、本人はその気はないんだけど、ものすごく頼りなくて、思わせぶりでもあって、周りの男性が自分が守ってあげないと危なかしくて見ていられない人なんですけど、でもその女性に振り回されて、裏切られて、でも執着して、っていう先が分からないドラマなんです。で、不思議と先が知りたくなるドラマなんです。
それで先週説教の準備で、一度読んだ本ではあるんですけど、「レヴィナスと愛の現象学」っていう本を読み直したんですけど、これがなかなか分からない本なんです。分からないけど、分かりたくなる本なんです。この作者の内田樹にとって、このレヴィナスという人が、まさに、分からないけど、分かりたくなる人なんです。レヴィナスという人は、一般的には、フランスの哲学者、フッサールという人の現象学を発展させた人と認識されていますけど、この本を読む限り、ユダヤ教の先生です。ブーバーとかもそうですけど、本当に旧約聖書の神髄が分かっていくと、イエスさまを指し示すことになる。
今日の福音書の箇所は、ファリサイ派の人が、イエスさまに、聖書の一番大事な教え、律法で一番重要なものは何かを尋ねます。するとイエスさまは、
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
それを聞いて私たちが思うことは、神さまを愛してはいるけど、心を尽くし、思いを尽くしなどと言われると、できていないし、正直とても無理だとも思ってしまいます。隣人に愛を持っていないわけではないけど、自分を愛するように愛しているかというと、それはできていないし、正直無理だと感じてしまいます。
 レヴィナスは、こんなことを言います。現象学の出発点は、デカルトの「われ思うゆえにわれあり」。私昔から思っていましたけど、それがどうした、そう思っていました。それで何か説明されたことになっているのか、そう思っていました。現象学で、レヴィナスが語ったことは、我だけではなく、他人もいるらしい、ということなんです。それがどうした、っていう感じです。
でも、これが意味するのは、この世界は、映画のマトリックスみたいに、見させられている夢みたいなもので、本当に現実にあるって言える確かなものなんて、何も言いきれないかもしれない。でも、この自分という存在が存在した。この不思議だけは揺るがない。どうして出てきたのかは分からないが、自分という人格が存在した。人生の中で楽しいこともあり、うれしいこともあり、人には評価はされないかもしれないが、結構悩み、結構苦労し、人知れずそれほど優秀でもない自分を抱えて生きてきた、この自分は存在した、この不思議だけは揺るがない。それが、われ思うゆえにわれあり、の意味するところです。そしてレヴィナスが言ったのは、全く違うものではあるけど、理解したくても理解できなくても、あなたの隣にいる人にも、その不思議がある。なくなれば、もう二度と表れない、唯一無二の不思議がある。ありていにいれば、あなたの隣人には、人格があり、取り換えのきかない、唯一の人生がある、ということです。それが、自分を愛するように、隣人を愛することの入り口になる。
 他人って不思議です。気を付けなければいけないことは、他人のことなど分かるわけがないと匙を投げること。同じようにいけないのは、分かったつもりになることです。この人は、こういう人だと。大切なのは、分からないけど、分かろうとすることです。
 分からないけど、分かりたいって、恋愛の入り口にも似ています。なんだこの人、今まであったことがない、けど、分かりたい、と思うのが恋の始めだったりします。人によっては嫌いだったけど、気になる人だった、という人もいます。愛は不思議です。
内田樹が語るのは、一番似ているのが、師匠と弟子の関係です。師匠は常に、分からないけど、分かりたい人。内田樹は、レヴィナスの研究者ではなく、弟子だと自称しています。
でも、レヴィナス自身にとっては、神さまこそ、聖書こそ、信仰こそが、分からないけど、分かりたいものです。分かるわけがないと匙を投げてはいけない。分かった気になってもいけない。ファリサイ派、律法学者、今でいえば牧師です。分かった気になった途端、信仰は死ぬ。神は生きておられます。神さまは私たちが考えている以上に、広く深いものです。最初に戻って、分かりやすい説教は、そこで完結し、止まってしまう。分からないけど、分かりたくさせることが信仰を生かすことです。私たちは主の弟子です。心を尽くし、思いを尽くすのは、弟子の姿です。弟子であることをやめてはいけません。信仰ばかりではなく、あらゆることに言えることです。分かったつもりになったら、そこであらゆるものが止まります。死にます。分からないけど、分かりたい、そう祈りながら、この世界に乗り出していきましょう。