No.27

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2020年11月8日  聖霊降臨後第23主日

マタイ福音書25章1~13節 「 まだ、出来る事がある 」 吉田達臣

25:1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 わたしの中に、なぜか忘れずに覚えている話があって、星新一のショートショートの作品の中で、ある時大きな岩が自分に向かって転がってくる。慌てて逃げると、ある一定の距離を開けて転がってくる。スピードを上げても、一定の距離で追いかけてくる。じゃあ、スピードを緩めてもこの距離のままではないかと思い、そうしてみると、それは近づいてくる。ただ、意図的にスピードを緩めると迫ってきますが、疲れてスピードが落ちたときは、向こうも速度を落としてくれる。疲れ果てて気を失い、眠り込んでいると、その物体も止まっている。しかし、起きてすぐに動き出さないと、また迫ってくるが、一生懸命走ると、一定の距離を保ってついてくるだけ。それを何日も続けているうちに、その追っかけっこが楽しくなってきた、という話なんです。
何とも言えない話で、すごく面白いわけでも、すごく教訓めいた話でもない。でも、なぜか私の印象に残っている話なんです。ただ、追いつくか追いつかれるか、できるかできないかのギリギリのものって面白い。全然できなくてもつまらない。簡単にできてもつまらない。その状況での自分の精一杯を使って、ぎりぎり何とかした一日は、充実感があって、「生きている」ということを強く実感できるかもしれません。
今日の福音書は、マタイ25章です。来週、再来週もこの25章の続きを読んでいきますが、終末、最後の審判を少し連想させる話です。この次は、主人がタラントを貸し与えて、旅に出て、帰ってきてどう使ったかを尋ねる話です。その次は、王が小さなものに対して、飢えていた時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、病の時に見舞ってくれた、それは私にしてくれたことと同然だと言って新しい国に招く話です。
今日の話は、婚宴で花婿を迎える役割の10人の乙女がいて、ともしびを灯して迎え入れるのですが、花婿の到着が遅れてみな眠ってしまった。眠っている間に油がなくなってしまったようです。5人の賢い乙女は、油の予備を持っていたが、愚かな乙女は替えがなく、慌てて店に階に行っている間に、花婿は到着し、門は閉められる。ご主人様開けてくださいと願いますが、お前たちのことは知らない、と言われてしまう、という話です。最後に、「だから目を覚ましていなさい、あなたがたはその日その時を知らないのだから。」という言葉で締めくくられています。
試験でも、抜き打ち試験というのがあります。試験の日が分かっていれば、前日に一夜漬けで猛勉強したりする。でも、その日その時が分からない抜き打ち試験は、普段からの取り組みが問題になります。では、このたとえ話でいう、賢い乙女の油の備え、とは私たちにとって、何を意味するのでしょう。この続きの箇所がヒントになるかもしれません。あなたは神さまに与えられている力を十分に使って、小さなものに対して、できることをしているだろうか。偉い人には気を使っているが、小さなものにはバカにした態度をとっているかもしれません。あるいは、小さなものに対して、思いはあるが、失敗を恐れて何もせずにいるかもしれません。
こんな思いの人もいるかもしれません。人と比べられると恥ずかしいが、この小さな力で、今まで神さまのため、隣人のためにできることをやってきた。でも、だんだんと年を取り、今は気持ちがあってもできることがない。あるは逆に、若く経験がなさ過ぎて、できることをしたいと思うが、できることが分からない、そんな思いの人もいるかもしれません。あるいは、こんなコロナの状況では、と思う人もいるかもしれません。
このコロナで、巣ごもり生活をしていた時、ある方に手紙を書いたら返事が来て、本当に引きこもり生活で、人に会えないのがつらい。やることもないので、一日一通手紙を書いていると書かれていました。人と会えない中、思いもかけない人から手紙がきたりすると、とても嬉しいから、わたしもそうしている、と書かれていました。
人間の賢さって、きっとそういうもんです。この乙女が10人とも愚かだったら、自分たちが愚かだとは思わず、遅れた花婿にもんくを言っただろうと思う。こんな夜中の到着じゃ寝ちゃうのはしょうがない、そう言い合っているかもしれません。目を覚ましていなさい、と最後に書かれていますが、賢い乙女も寝ています。でも賢い乙女は、寝てしまう自分の弱さを知っていました。その弱さを踏まえて、それでも何かできることはないかを考えた。それが人間の賢さです。
私たちは経験も浅いかもしれない、年を取ってできることも少ないかもしれない、それでも本当に、あなたに今できることはないだろうか。このコロナの状況だけど、本当にできることはないのだろうか。それを考えなさい、と神さまは今日言われます。それは、あなたが裁かれないように言っているのではありません。あなたが婚宴の宴に参加するためです。喜んで生きるためです。生き生きと生きるためです。あなたにはまだ出来る事があります。そう信じて、歩み始めましょう。