No.29

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2020年11月22日  永遠の王キリスト

マタイ福音書25章31~46節 「 生き尽くす 」 吉田達臣

25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、山羊を左に置く。34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 私が神学生の時、ボランティアをしていました。日本基督教団の教会が主催していたもので、山谷という場所で食堂をしていました。山谷という町は、以前は日雇い労働者の集まる町でしたが、私が神学生のころは、家を持たないかつて日雇い労働者だった人が、高齢になり、仕事もなかなかなく、貧しい生活や路上で生活もしている人がいる場所でした。全国の教会などから送られてきた食材や献金で料理をし、50円、100円という値段で、食べ物を提供していました。食堂とは別に、2か月に一度くらい、無料で配る炊き出しもしていました。冬の始まりになると、夜回りして、毛布やジャンバーも届けていました。そして数年に一人くらい、縁があった人に住むところを用意し、生活保護を受けられるようにする、ということをしていました。取り仕切っていた人に、そうやって本格的に助けるのは、縁があった人、と言われた時にホッとしたのを覚えています。困難を抱える人全員を助けるのではなく、縁のあった人を助ける、それでいいのかと思った記憶があります。

今日の福音書の箇所は、マタイではイエスさまの最後の話になります。最後の審判を思わされる場面です。人の子が栄光に輝いて、天使たちを従えてくる。すべての国の民を集め、一方を右に、もう一方を左に分ける。王様は、右のものに言う。あなたがたは、私が飢えていた時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、裸の時に着せ、病の時に見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。右の人は言います。王様にそんなことをした覚えはないと。すると王様は、私の兄弟の中の最も小さなものにしてくれたのは、私にしてくれたのと同じなのだと。続けて王様は、左のものに、あなたがたはそれをしてくれなかったという。すると左の人は、王様が困っているときはいつも助けた、と言います。しかし、王様は、最も小さなものにしてくれなかったのは、私にしてくれなかったのと、同じなのだといいます。

のどが渇いていそうな人に、水の一杯も差し出したことがない、という人はあまりいないと思います。でも逆に、困っている人を見て、見てみないふりをしたことがない、という人もおそらくほとんどいないと思います。私たちがこの話を聞いて、後ろめたい思いを持たない人は、ほとんどいない。

ただ、そこで後ろめたさを感じた人は、あなたの中に、神さまが住んでいる証拠です。何か能動的に、悪意を持って人を貶めたわけではなく、困っている人を見て、何もしなかったことに心を痛めるというのは、人間が宿している少し不思議で、尊い感情です。心を痛めるのは、嬉しい感情ではありませんが、無くしちゃいけない思いです。何かの機会に半歩前に出られるかもしれません。

そして大事なことは、神さまの前では、自分が小さなものであることを知ることです。この話で教えられていることの一つは、神さまは私たちが驚くほどに、小さなものを大事に思っていてくださるということです。

最近日本でも総理大臣が代わりました。アメリカでも大統領が代わるようです。今日の主日、金曜日まで看板に「聖霊降臨後最終主日」と書いていました。でも、教会手帳を見ると、もう一つの主日の名前が書いていました。「永遠の王キリスト」最初は、見慣れず、変だなあと思っていましたけど、この日課を学んでいくと、イエスさまが永遠の王であるならば、何と素晴らしいことかと思うようになってきました。国民の中の、最も困難なものを助けてくれたなら、それは私が助けられたことのようにうれしい。国のトップがそのような思いを持っている国は、本当に素晴らしい国です。今の総理大臣はどうでしょうか。キリスト者にとっては、イエスさまが永遠の王です。小さなあなたを我がことのように思っていてくれます。小さな自分を神さまに委ね、イエスさまのような愛が自分にも与えられることを祈りながら、新しい一週間を始めましょう。