No.30

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2020年11月29日  待降節第1主日礼拝

マルコ福音書13章24~37節 「 待ち望む信仰 」 粂井 豊

 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 (一コリ1:3)

 

 早いですね。今日から教会の暦では2021年という新しい年の歩みとなります。あらためて申すことではないかと思いますが、教会の暦ではこの待降節第1主日が2021年の始まりです。「待降」という漢字が示しているように、私たちキリスト者はイエス・キリストの降誕日を待ち望み迎える心を大切にして新しい年を歩み始めます。皆さまは待ち望みつつクリスマスを迎えようという思いになっていますか。私の中では、年を重ねてくるごとに時間のたつのが早くなるように感じ、待つ心よりも、最初に申しましたように、もう待降節だというのが実感です。皆さまはいかがでしょうか。時間は、子どもでも、年寄りでも全く同じ一日24時間のはずなのに、年が増えて来ると早く感じて来るのは何故でしょうか。科学的な根拠は全くないのですが、私の中では、年を重ねるごとに待ち望むことよりも、時間に追われてすごす感覚が強くなってくるからではないかと思います。子どもの頃は早く夏休みが来ないかな、冬休みが来ないかなと、「もういくつ寝るとお正月」と歌にもあるように、楽しみの日を期待しながら指折り数えて待つ、という感覚が強かったと思うのですが、時間に追われていると、待ち望む日々よりも、何かをすることに負われて時を過ごす。一つのことをするのでも、あれも忘れこれも忘れと、忘れ物を探しながら仕事をしていると、あっという間に時間が過ぎるという有様です。少し脱線してしまいましたが、待ち望みながら過ごすことはとても大切だと思います。そして、キリスト教の信仰は、本質的には期待であり、待望であると思います。希望に向けて待ち望む信仰によってイエス・キリストの愛の歩みに従うのです。
 今日の待降節第1主日に選ばれた日課は、小黙示録と言われているマルコによる福音書13章の、いわば結びに当たる箇所ですが、まさに、この箇所を通して、待ち望む信仰の大切さが問われます。イエスさまが十字架の死という歩みに向かって行く前に、弟子たちに向かって神さまの啓示としての終末について語られています。イエスさまは、ユダヤの国の人たちが良く目にしているいちじくの木をたとえにして、季節の始まりや終わりを知ることができるように、さまざまな艱難の出来事が起こった後に、イエスさまが再び来られると言うのです。今日の箇所の前の「9節では、方々に地震があり、飢饉が起こる、それは産みの苦しみの始まりであり、19節では、それ以上に、神が天地を作られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来る。」と弟子たちに語っています。そして、今日の箇所の最初に、「そのような苦難の後に大いなる栄光を帯びて雲に乗ってくるのを見る。」と言うのです。このようなイエスさまの言葉を皆さまはどのように聞かれるのでしょうか。
 このところ様々な災害が頻繁に起こっているように思います。今は、一向に終息の目処が立たないコロナウイルス(COVID-19)感染問題で悩まされています。2019年には、九州北部を襲った大雨や台風15号、19号、2018年では、大阪区部地震や胆振東部地震、西日本を襲った豪雨や、関西国際空港などを襲った台風21号、それ以前には、熊本地震、御嶽山の噴火、10年前には、東日本大震災が起こり、多くの人々が災害に巻き込まれ苦しむようなことが起こっています。このような災害を味わっている中にあって、今日の箇所の言葉を聞くと私たちは一瞬たじろいでしまわないでしょうか。たじろぐ私たちに追い打ちをかけるように、「目をさましていなさい」と言われると、目を覚ましていようと前向きに心が向くことのできる人は良いのですが、目を覚ましていることのできていない自分を感じているものは、ますます困惑してしまうのではないでしょうか。少なくとも私はそうであります。ですから、私はかつて、このような箇所を読むと、聞いている振りをしてスルーしていました。しかし、イエスさまのみ言葉は、終末の世界観から聞いていかないと、真の喜びや、待ち望む信仰の喜びを味わうことはできないことに気づかされます。
 イエスさまは、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」と言われました。天地が滅びるというと、少し大きすぎて自分の身近な出来事として感じないかもしれません。この言葉を人の死に置き換えて見たらどうでしょうか。私たち人はいつか死ぬと知っています。しかし、その死について真摯に向き合うことはなく、ただ漠然と皆、明日はあると思って生きていないでしょうか。しかし、自分の死や、愛する人の死はいつかやってくるのです。先月、私は母を見送りました。多くの人は99歳も生き天寿を全うされて良かったね、と言われますし、私も、そう思います。しかし、愛する人や、自分の死が平均寿命以下で死を迎えざるを得ないとすると、その死を受け入れることができるのでしようか。人は人が平均寿命以上の年を過ぎると、皆死ぬのだからという現実に有無も言えず、受け止めざるを得ないという一種の諦め的な受け止め方をしているように思います。もし自分自身が癌や、今問題になっているコロナ感染の重症者になったらどうでしょうか。多くの人は、自分は根拠のない漠然とした大丈夫という思いにたっていて、そのようなことが突然襲ってくると、死を受け止めることができなでオロオロしてしまうのではと思います。少なくとも、私自身はそうです。人の死は、いつやってくるのか分からないのです。自分自身のことでなくても、自分の愛する人を突然失うというようなことも起こるのです。平均寿命以上に生きる人生もあれば平均以下で若死にする人生、さらには障害を持って生まれ歩む人生も有り、苦難のみといわざるを得ない人生も有ります。人生とは何でしょうか。年老いて来ると、「早く死にたい、ぽっくり死にたい」というような言葉を言っているのを耳にいたしますし、正直なところ、最近自分もそのように思う心が強くなってきています。それは、どうしてでしょうか。年老いて来ると、体の自由がきかなくなり、物忘れも多くなり、だんだん思うように行かなくなって人の世話をうけるようになってしまうような自分を考えてしまいます。そのような人に迷惑をかける歩みにしかならないのであればと思うと、そんな状態になった生き方は惨めだと感じてしまっているからではないでしょうか。身体が元気で若さあふれている時は、何でもできるし、そこに意味があるように思っています。しかし、死は突然やって来ることもあるのです。しかも、やって来る死で全てが終わりだとしたら、人生とは何でしょうか。
 イエスさまは、人々に寄り添い、人々に尽くして歩まれました。しかし、人々は自分の思うような助けを与えてくれないイエスさまを十字架につけて殺してしまいました。そのイエスさまの死が、死でおわりであったならば、イエスさまの歩みは実に惨めな歩みにしか過ぎません。しかし、イエスさまの惨めな死は、死で終わりではなく死に勝利する復活の歩みであったのです。聖書は、復活されたイエスさまによって、人々に尽くし、人々に神さまの愛の交わりを与えて歩まれた世界こそ、真の愛に満ちた世界であると語ります。私たちキリスト者は、その愛に包まれた世界に導かれていることを知らされ、希望に目を向けた生き方へ導かれているのです。いつ、どのような死がやって来ようとも、そして、その死に恐れを覚えざるを得ないようなことがあっても、その死に心奪われるのではありません。死に勝利された復活のイエスさまに方に心を向ける生き方へと導かれているのです。イエスさはま、「天地は滅びるが、」の後の言葉に続いて、「私の言葉は決して滅びない。」と言われました。ヨハネの福音書の言葉の冒頭に、「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。・・・・・。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と記されています。これは    イエスさまのことです。私たちキリスト者は、この命ある光であるイエスさまに迎えられる希望の日を確かに見る日を待ち望みつつ歩む道としての信仰を与えられているのです。イエスさまが与えてくださった永遠の命の希望に心むけ、その日が確かに与えられる日を待ち望みつつ、新しい年の歩みを始めましょう。

 祈ります。
 天地を造りたもうた全能なる神さま、あなたがみ子主イエスによって与えてくださった希望の光を与えてくださっていることを感謝いたします。私たちが聖霊によって、やがて再び来られる主イエスの栄光を確かに見ることができる日を待ち望む信仰に導かれ、新しい年の歩みも希望に向かって生き生きと歩むことができるように導いてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。(ロマ15:13)