No.34

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2020年12月27日  降誕節第一主日

ルカ福音書2章25~40節 「 本当の慰め 」 吉田 達臣

2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 2:27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。」
2:33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
2:36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、 2:37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、 2:38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。 2:39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。 2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

 

 もうすぐお正月を迎えますが、テレビのニュースかなんかで、今年は実家に帰省するかどうか、街頭インタビューを行っていました。教会員の方でも、今年娘は帰省しないことになりました、という話も聞きました。幼稚園でも、世の中でもいろんな行事が中止になりました。感染病って、病気の脅威だけではなく、人と気軽に会えない、気軽に集えないことで、今年の私たちから、色んなものを奪って言った気がします。今日の説教題は「本当の慰め」としましたが、慰められたい、そんな思いで教会に来ている方もいることと思います。
 今日の箇所は、イエスさまの宮詣です。イエスさまはベツレヘムの馬小屋で生まれました。出産直後は、清めの期間として、40日間動き回ることが禁じられていました。産後の肥立ちということを考えれば、母体を守るための期間であるのかもしれません。ナザレから見ると、エルサレムはイスラエルのずっと南の方ですが、さらにその南の先に、ベツレヘムがあります。ベツレヘムからナザレに戻る途中にエルサレムがありました。ユダヤ教の教えとして、過越しの出来事を覚えて、長男は、神さまにささげるという規定がありました。しかし、実際には、長男をささげる代わりのものをいけにえとしてささげる習慣がありました。エルサレムの神殿に立ち寄ったマリヤとヨセフは、山鳩一つがいをささげに行きました。
 その神殿には、シメオンという人がいました。この人は信仰のあつい人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいたといいます。その思い、その祈りによってか、彼の上には聖霊がとどまり、聖霊のお告げで、死ぬまでに、必ず、主の遣わすメシアに出会える、そう告げられます。それは、シメオンにとっての何よりの喜びであり、慰めであったと思います。ただ、年齢を重ねるごとに、それは喜びというより、残された使命といいますか、まだ全うできていない使命、宿題のようなものに感じられていったかもしれません。ですから、ヨセフとマリアが、イエスさまを見つけ、イエスさまを抱いた時、ああ、これで神さまに与えられた使命が全うできた。ようやく使命を果たすことができた、そういう思いを抱いたようです。シメオンから出た言葉は、私たちが毎週唱えている聖句です。ヌンクディミティス。

 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

 そしてこの言葉が続いていきます。

 これは万民のために整えてくださった救いで、  異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

 シメオンという人は、イスラエルが慰められることを望み続けた人です。でも、多くのイスラエル人が望んだように、ダビデ王の時代のような強い国になることを望んだのではなく、ソロモン王の時のような豊かな国になることで、慰めを得ようとしたわけではないようです。万民に、すべての民族に、救いを整え、異邦人に神さまの希望の光を与える人、そのような人がイスラエルの中から出てくること、それこそが、イエスらエルの誇りであり、イスラエルの慰めだといいます。他の人たちに比べて、自分たちはすごい、という姿を与えてくれる人ではなく、人を助けてあげられる人、人に希望を与えてあげられる人、人を救ってあげられる人が、自分の仲間から出てくること、それが自分たちの誇りになり、自分たちの慰めになります。
 最近、アフガニスタンで、医師をしながら、本当に人を救うためには、ということで、井戸をたくさん掘った、中村哲さんの本を読んだり、折に触れ、マザーテレサの本を読みますけど、ある人の文章で、マザーテレサや中村哲さんは、恐らくイエスキリストに導かれて、あのような働きをしているが、あのような人たちは、キリスト者の中でもまれな人である、って書いてある文書を見て、鋭いな、と思いました。信仰を持てば、中村哲さんやマザーテレサのようになるわけではありません。彼らは、キリスト者の中でもまれ人です。でも、それでいい。教会から、あんな人が独りでも出てくれれば、日本のキリスト者から、あんな人が独りでも出てくれれば、私たちの慰めです。先々週、食に困っている人のための食料の協力を求めました。募集期間一週間しかなかったですけど、たくさん食べモノを持って来てくれました。たとえ、自分が持ってこなかったとしても、自分の教会が主催してやっていることではなくても、そうやって食料を持って来てくれる、兄弟姉妹がいることは、私たちの誇りであり、慰めです。クリスマス以来、イエスさまが、人間の仲間に加えられました。たとえ、自分ができなくても、罪人を救うために、自分の命を差し出される、そういう方がいるだけで、人間の誇りであり、慰めになります。聖書の教える慰めは、そのような慰めです。われ弱くても、私の兄弟を誇り、主を誇りましょう。あなたが人を助ければ、私たちの兄弟の慰めにもなります。イエスさまに従って、新しい一週間を歩みましょう。