No.36

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年1月10日  主の洗礼

マルコ福音書1章4~11節 「 揺るがぬもの 」 吉田 達臣

1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 私たちは、自分がとても不安定であることを知っています。私たちは、とても揺らぎやすい。不安定な自分が、とても不安です。今は機嫌よくしているが、いつ苛立った自分が出てしまうだろう。いつ落ち込んでしまうだろう。追い詰められたら、いつだって醜い自分が出てきます。そんな自分が出てくることを、私たちはどこかで恐れている気がします。
 信仰を持っていれば、そんな弱い自分は出てこない、などと聖書は教えません。むしろ、いくら隠していても、あなたの奥には、弱い自分がいることを、聖書は繰り返し教えているといってもいいでしょう。
 この教会の基でもある、ルターは、ある時期繰り返し、懺悔を行っていたといいます。宗教改革の前の、修道士だった時代、修道院長に、何度も何度も懺悔に行ったそうです。懺悔をして、部屋に帰る途中また引き返して、また懺悔をする。そんなことを何度となく繰り返す。それが毎日続く。修道院長に、もっと神さまを信頼するように、注意されたという記録が残っています。ルターはとても懺悔を重んじました。おそらくその頃のルターは、懺悔をして吐き出さないと、自分の中に罪が残っている、という感覚があったのかもしれません。廊下の途中で、少しでも悪意ある思いが浮かぶと、それを懺悔しに行ったようです。
 宗教改革以降、ルターは、サクラメント、聖礼典、目に見える神のしるしを7つから、2つにしました。聖書に基づき、イエスさまが直接命じたものだけにしました。洗礼と、聖餐式です。しかし、宗教改革の初期のころは、3つでした。懺悔が入っていました。ルターの改革から始まる、私たちのこの礼拝も、懺悔から始まっています。しかし、ルターは聖礼典を3つから、2つにします。懺悔を削ります。懺悔は、洗礼に立ち返ることでそこに含まれると考えました。宗教改革運動が始まった、かなり早い段階で、3つから2つにしました。
 今日の主日は、主の洗礼、イエスさまが、洗礼者ヨハネから、洗礼を受けたことを覚える場面です。洗礼者ヨハネが、荒野で悔い改めの洗礼を宣べ伝えます。おそらく文字だけでは分からない、独特の迫力、独特の説得力があったのでしょう。ユダヤ全土から、ヨハネのもとに洗礼を受けに来たといいます。
 ヨハネは語ります。私の後に、もっと優れた方が来る、と言います。私はその方の、履物のひもを解く値打ちもない、それくらいの差なのだと。自分は、その方の僕になる価値もない、そのくらいの差がある。具体的には、私は水で洗礼を授けるが、その方は、聖霊によって、神の力によって、洗礼を授けるといいます。すると、それを聞いていた人にとっては、少し意外な姿で、現れたかもしれません。群衆の中から、群衆と共に、群衆の一人として、自分たちと同じように、悔い改めの洗礼を受けるものとして現れます。その方は、ヨハネから洗礼を受けると、天が裂けて、鳩のように、霊が降ったといいます。これが、聖霊による洗礼かもしれません。
 私たちは洗礼を授かりました。あるいは、今招かれています。洗礼は、水によって受けましたし、牧師から受けましたが、本質的には、洗礼は、父と子と聖霊の名によって授けられるものです。
 洗礼のような、洗い清めるという習慣は、ヨハネ以前にもありました。他の宗教でも、神社に行けば、手を洗い、何か問題が続いた時には、身を清めるという習慣があるものもあるでしょう。
 しかし、洗礼者ヨハネから、キリスト教に受け継がれる、大きな変化がありました。それは、生涯ただ一度だけの洗礼です。ルターの時代、宗教改革運動のうねりの中で、再洗礼派と言われる人たちが現れました。幼児洗礼を否定し、人間の自分の意志によって信仰を告白する、それが本当の洗礼だといった人たちです。そういう考え方の人たちもいるのでしょうが、キリスト教会にとって再洗礼は異端です。信仰は、人間の意志や決断ではありません。もしそうだとすれは、それはとても不安定で、揺らぎやすい。厳密にその考えに添えば、信仰から心が離れ、また戻った時も洗礼が必要になるでしょう。
 ただ、一度の洗礼、それは回数の問題ではないんです。本当に大切なことは、それは神さまが授けてくださったものであり、永遠のものであり、揺るがぬものだということです。だから一度でいいんです。
 私たちは、揺らぎやすい不安定な自分の中に、唯一、永遠に揺るがぬものを授かっています。それが洗礼です。罪を犯しても、悪意が心中に起こっても、洗礼を授かっていることを思い出し、その原点に立ち返り、悔い改めればいいんです。
 洗礼は、神さまの導きによってなされた、神さまの意志によって授かった、永遠に揺るぐことの無いものです。だから、二回する必要はないんです。
 揺るがない、神さまからの愛と、救いの約束、神さまがいつも共に居てくださる、その約束の洗礼を覚えて、新しい一週間を歩みだしましょう。