No.38

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年1月24日  顕現後第3主日

マルコ福音書1章14~20節 「 選ばれて 」 吉田 達臣

1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

 昔の人の話で、両家で話がついて、結婚が決まり、最初に会ったのが結婚式だった、という話を聞いたことがあります。結婚までに一度も会わなかった二人が、うまくいくのかなあ、と思ったりしますが、案外うまくいっていたりします。
 ある人が言っていました。昔は、職業も選べなかった。百姓の子は百姓で、漁師の子は漁師。選べないっていうのは、不自由に見えて、案外良いところがある。脇目も振らず、それで良くなっていくことしか、考えなくていい、と言うんです。
 選択肢があれば、人は迷います。自分にはどれが一番合っているのか。でも、実際そんなことは事前に分からない。分からないながらに選ぶ。それで、ちょっと大変なことがあれば、この選択は間違っていたのかもしれない、そう思ってまた悩み、迷います。迷いながら続けたり、迷いながら新しい選択をする。でも、いずれを選んでも、何か困難があれば、この選択は間違っていたのではないだろうかと、人はまた迷います。
 でも、選択肢は、この一択しかない、ということであれば、それを是が非でも正解にするしかない。迷わずに、それを良くしていくしかない。そういうところが、選べないという状況の、案外と良いところなのかもしれません。
 今日の福音書は、マルコによる福音書の中で、イエスさまが宣教を始めていった箇所です。イエスさまが宣教を始めたのは、洗礼者ヨハネが捕らえられた後であるとマルコは言います。イエスさまも洗礼者ヨハネも、真の悔い改めを求めました。洗礼者ヨハネが悔い改めを求めたのは、裁きを免れるため、と言った意味が強かったように感じます。しかし、イエスさまは違います。

 イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 この短い文章に、福音という言葉が二度出てきます。福音とは、ギリシャ語でユウ・アンゲリオン。ユウというのは、EU良いという意味です。アンゲリオンは英語風に発音するとエンジェル、福音とは、良き知らせ、グッドニュースです。神の国、神の支配という素晴らしいものがもう目の前に来ているから、もう悔い改めなさい、イエスさまはそう伝えます。
 そしてイエスさまが最初にした具体的なことは、弟子を作ることでした。イエスさまは、4人の漁師に、私についてきなさい、と声をかける。イエスさまの弟子の特徴は、イエスさまの方から声をかけて弟子にすることです。4人とも、全てを捨てて、すぐにイエスさまについて行ったと書かれています。誤解してほしくないのは、みんな本当に即決して、一瞬のうちについて行ったというわけではないということです。他の福音書を読むと、ペトロの姑が、熱があったところをいやしてもらったり、一晩中漁をして一匹も魚が取れなかった朝に、イエスさまが船に乗り込んできたりと、恐らくそれ以外にも、様々なやり取りがあったのだと思います。
 ではなんで、マルコは、こんな簡単な話にしているのか。おそらく、使徒たちが時に、そう語っていたのだと思います。なんで、イエスさまの弟子になったのですか、そう尋ねられ、いや、イエスさまから声をかけられたので、ついて行った、それだけだよ。よくそう語っていたのでしょう。
 わたしも時々聞かれます。なんで牧師になったのですか。なんで信仰を持ったのですか。色々ドラマティックにも話せます。それっぽい理由も言えます。ドストエフスキーの本を読んでと。でも、わたしと似たような経験をすると、みんな信仰を持って、みんな牧師になるのか、と言われると、決してそんなことはありません。その中で、なぜ私が信仰を持ったのか、なぜ、あなたが信仰を持ったのか。やはり突き詰めて言えば、イエスさまから声をかけられ、それに従った、それに尽きる気がします。
 ルターが「隠れたる神」、という説教の中で、人は知恵が増すほど、隠れたる神を見つけることはできないといいます。星の王子様のようですが、隠れたる神を見つけるには、幼子のようにならなければならないといいます。
 羊が、本当の羊飼いの声を聞き分けるように、イエスさまに本当の羊飼いの声が聞こえたら、それに従う、それが信仰です。
 イエスさまの導きは、時に不思議な道で、困難や迷うことも出てきます。でも、その道は神の国につながっています。イエスさまが与えてくれているのは、福音、良い知らせです。この羊飼いの背中を見て、新しい一週間を歩みだしましょう。