No.40

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年2月14日  主の変容

マルコ福音書9章2~9節 「 闇に輝く 」 吉田 達臣

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

 今日は主の変容、変容主日です。イエスさまは、3人の弟子たちだけ連れられ、山へ登ったといいます。そこでイエスさまの姿が変わり、服が真っ白に輝き、エリヤとモーセが現れたといいます。最後には神の声が聞こえたといいます。3人の弟子は、それを目撃します。一種の神秘体験です。

 神秘体験、とまではいかなくても、信仰体験を強調する教派もあります。祈りが聞かれた体験や、神さまが助けてくれたとしか思えない経験をしたとか。信仰に出会って、自分がこんな風に変えられた、という、いわゆる証しをする教会があります。

 聖書って、改めてすごいなあ、と思います。このような神秘体験は、時に少し人を狂わせます。だから、この3人に絞ったのかもしれません。リーダー格である、この三人は、やはり少し狂います。9章全体を読み直してみると、この変容の後、それまではあまり見たことがない話で、汚れた霊に取りつかれた子をまず、弟子が癒そうとする。しかし、それは失敗し、結局イエスさまに助けてもらいます。十字架と復活の予告を挟んで、弟子たちは、弟子の中で一番偉いのは誰かという論争が起こしています。その次の話は、イエスさまの名を勝手に使っているものがいると弟子が忠告する。しかし、イエスさまは取り合わず、逆らわないものは味方だと答えます。最後に、小さなものを躓かせてはならない、という話を、そのようなものは大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまうほうが良い、というような、かなり強い口調で、イエスさまが語る話です。

 弟子たちは、自分たちこそ正当で、自分たちは選ばれしすごいもの、という勘違いを始めていきます。自分が特別なものに立ち会えている、変容の目撃から、弟子たちは少し狂い始めています。

 私たちも時々、礼拝で感動し、今までより大分信仰が分かった、そう思える瞬間が時々あります。祈りが聞かれ、本当に神さまがいるんだと感激する経験を持っている人もいるでしょう。それ自体はとても大切です。しかし、その時に神さまへの感謝と畏れ以上に、自分の信仰、自分の祈り、こんな信仰を持っている自分、そちらの方が大きくなることがあります。熱心な人ほど、この危険があります。この危険を私たちは信仰を通して学びますが、すべての分野のあらゆる熱心さには、狂わせる力、暴走の危険が伴っています。

 しかし、私たちには、この熱狂から守ってくれるものがあります。イエスさまは、最後に弟子たちに言います。

 「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

私たちを守ってくれるのは、イエスさまの苦しみです。イエスさまの十字架です。人を救うために苦しみを受けるイエスさまの姿を見るとき、私たちは、自分の小ささを思い出します。
水曜日から受難節に入ります。イエスさまは、そこにもイエスさまの光を灯すために、最も深い闇へ進んでいかれます。私たちは光に熱狂するのではなく、闇の中へその光を届けようとされるイエスさまの姿を見続けましょう。絶望の中に、光を届ける救い主の姿です。私たちの揺るがぬ希望です。誇るならば、主を誇りましょう。主を賛美して、新しい一週間を始めましょう。