No.43

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年2月28日  四旬節第二主日

マルコ福音書8章31~38節 「 愛は負けない 」 吉田 達臣

8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

 今日の箇所は、ペトロの信仰告白の直後の話です。そこで、イエスさまは、初めて自分の受難と十字架、復活の予告をします。するとその信仰告白をしたペトロは、イエスさまを脇へ連れて行き、いさめ始めたと言います。いさめる、という言葉は、叱るという言葉と同じ言葉です。ペトロはある意味、イエスさまを叱ったんです。すると、イエスさまは、弟子達を見ながら、ペトロを叱ったと言います。弟子達を見たのは、他の弟子達にも、共に語ったのかもしれません。叱られた言葉は、かなり強い言葉です。

 「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 引き下がれ、という言葉は正確に訳すと、わたしの後ろに回れ、という言葉です。ペトロがここで、なんと言っていさめたのかは分かりません。でも、なぜいさめたのかは分かります。イエスさまが十字架に懸けられていったのと同じ理由です。その理由は、自分の期待していたメシアと違う、だから諫めた。
 私たちは、友人でも、恋人でも、師匠のような立場の人でも、最初出会った頃は、その姿を見て、この人こそ、わたしの理想、わたしの求めていた人だと、喜び踊ることがあります。しかし、長く付き合ってみると、自分が期待していた姿とは違った部分が見え始め、だんだんそれが目立ち始める。私たちは、勝手に勘違いした期待を掛け、勝手に裏切られた気分になり、相手を恨んだりします。ペトロは、この人こそ救い主と思い告白しながら、自分の求めていたもの、自分が期待していたものとは違う部分が見えると、このメシアを叱り始める。その時イエスさまは言います。「引き下がれ、わたしの後ろに回れ」あなたはわたしの後からついてくるものだと。自分の十字架を背負って、わたしの後についてくるものだと。自分の命を得ようとすること、自分のしたいことをしようとすること、自分の期待、自分の理想を追い求めると、あなたは命を失うと言います。それは神のことを思わず、人のことを思うことだと。
 イエスさまに従うということは、神の義を求めること、互いに赦し合い、互いの足を拭い合うこと、そして、イエスさまが愛してくれたように、互いに愛し合おうとすることです。言葉としては美しく、あまりその教えに反対する人はいないかもしれません。しかし、真剣に人を愛した人、真剣に人を救おうとした人、人の目をごまかすのではなく、神の前で本当に正しさを貫こうとした人なら、分かることがある。それは徒労に終わることがいかに多く、裏切られることの実に多いことです。人よりも一生懸命やった分だけ、強く裏切られたような思いになり、余計に許せないというか、もう関わり合いになりたくもないし、もう一度一生懸命やる気にはなかなかなれない、そんな思いを抱いたことがある人もいるかもしれない。そこまでではないにしても、若い頃は理想に燃えていたが、実際には、そんなにみるみる世界が変わっていくわけでもなく、情熱も小さくなっているという人もいるかもしれません。
 その思いは決して間違っていません。むしろ愛とはそういうものだと聖書は教えます。歌のように、必ず最後に愛は活、なんて言えない。けど、今日の説教題ですが、愛はそんなに簡単に買ったりしないけど、愛は負けないんです。
 チェコの宗教改革者ヤンフスは、15世紀の初め、ルターの100年前に、ルターと同じようなことを語っていました。でも、その運動は押さえ込まれ、フスは処刑されます。しかし、フスの主張は正しいと言って、100年後にルターがそれを実らせます。洗礼者ヨハネはヘロデに処刑されますが、それと後退するようにイエスさまが現れ、ヘロデはヨハネが生き返ったと言って恐れます。そのイエスさまも十字架に懸けられますが、今度は教会が始まっていきます。
 徒労を恐れないでください。無駄骨を惜しまないでください。志半ばを悲観しないでください。たとえ何もできなくても、あなたの後ろ姿を見ていたものが、新しく立ち上がります。神さまは、捨てられた石すら用いて、それを親石とし、新しい起点とされます。
 徒労を重ねましょう。無駄骨を積み上げていきましょう。中途半端な働きをつなげていきましょう。イエスさまは、十字架に向かわれます。イエスさまに従っていきましょう。