No.44

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年3月7日  四旬節第三主日

ヨハネ福音書2章13~21節 「 頼りゆくものに 」 吉田 達臣

2:13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

 今日の日課は、宮清め、と呼ばれる出来事です。すべての福音書に出てくる話ですが、ヨハネは、ほんの少しだけ角度が違います。ほぼ同じとていっても良いのですが、「あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす。」という詩編の聖句が引用されています。
 この箇所は印象に残っている方も多い。それ以外のイエスさまの言動と大分違うからです。イエスさまの、父なる神の家を思う熱意、それがイエスさまにこのような行動を促したと言います。
 ヨハネによる福音書は、特に最後の晩餐でのイエスさまの言葉で強調されますが、福音書全体に、父なる神様と、子なるイエスさまの深い結びつきが強調されています。深い結びつき、という言葉でも足りない、美空ひばりとその母親を一卵性親子などと言われたそうですが、イエスさまの場合、親子一体です。
 最後の晩餐、14章9節に

 私を見たものは、父を見たのだ。私が父のうちにおり、父がわたしの内におられることを信じないのか。私があなた方に言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父がそのわざを行っておられる。

 そう語られています。「私が父を愛し、父がお命じになったとおり行っていることを、世は知るべきである」そうも語っています。父なる神と、イエスさまは、愛によって一体になっています。この世のどんな理想的な親子にもないほどのものです。私たちは、イエスさまのように父なる神を愛し、父なる神を信頼する、そのことはなかなかできないかもしれません。しかし、父なる神様は、私たちに対し、イエスさまへの愛と同じ愛を向けてくれています。イエスさまは、その最後の晩餐で、こうも言います。

 私があなた方のために父に願ってあげる、とはいわない。父御自身があなたがたを愛しておられるのである。

 造り主と、救い主、父なる神と子なる神は、親子に例えられています。しかし、この世にある親子を超えた関係です。だから、この世のどの親子とも違う関係です。この世の親子は、それに比べて欠けています。でも、それでも、神の愛を、この世のもので例えるなら、親子の愛が一番近いと思います。はるかに劣っていたとしても、それでも一番近いのは、親子の愛です。
 我が子がなぜかわいいのだろうと、時々考えることがあります。姿だけで言えば、我が子よりかわいい子はいくらでもいます。優秀さで言えば、我が子より優秀な子はいくらでもいます。でも、我が子がかわいいのは、こんな頼りない自分を、世界で一番頼ってくれる。うちの子も、上の子は18歳で、近年の考えでは、成人らしい。もう大人です。でも、あの幼い頃、人見知りして、他の人を見れば泣いていたのに、自分だけをこの世で唯一の頼りにしてくれる、そんな存在は我が子以外にはいなかった。だから愛しい。
 大きくなっても、いまだに頼りにされると、嬉しいものです。聖書は、あなたに対する、神さまの愛を、放蕩息子の例え話でたとえています。たとえ裏切るようなことをしても、忠告も聞かず、案の定失敗して、ボロボロになって帰ってきても、遠くに見えた先から、走り寄って抱きしめる。それが親の愛であり、聖書の教える、あなたに注がれている神さまの愛です。放蕩息子は、悔い改め、雇い人の一人にしてください、などと殊勝なことを言いますが、それを聞いたから許したのではありません。その前に、見えた先から、父親から走って行く。死んだ子が生き返ったと、宴を催します。頼りにされるだけで、嬉しいんです。
 ですから、私たちが信仰で大切なこと、礼拝で大切なことは、建物でも、捧げ物でもないんです。あなたが神さまに頼る心、この方しか助けてくれる方はいないと、最後に頼る心、それを神さまは、一番に喜ばれます。たとえ礼拝堂がなくなっても、神殿がなくなっても、神さまに頼る心があれば、そこに礼拝は生まれます。そこに神殿は生まれます。
 神さまを頼みとして、新しい一週間を始めて行きましょう。