No.46

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年3月21日  四旬節第五主日

ヨハネ福音書12章20~26節 「 主に委ねる 」 吉田 達臣

20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。 22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。 23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。 24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 キリスト教の教えのかなり大切な教義に、三位一体という教義があります。イエス・キリストは神であり、清めたり命を与えたりする聖霊も神であるが、一神教をやめたわけではない。父、子、聖霊なる神は、三つにして一つ、三位一体の神である。大分無理があると思うんです。氷と水と水蒸気とか、太陽と月と光とか、完全に愛するものと、完全に愛されるものと、愛とか、神学校に入って以来、いろんな説明を聞きましたが、どれも一理あるとは思いつつ、すっかり納得できた話はありませんでした。ただ、不思議なことに、キリスト教の歴史を見ていくと、この三位一体の考え方から外れていく教派は、異端となり、やがて滅んでいったりします。
 三位一体に関係するのですが、私にとっていまだに、戸惑うイエスさまの姿があります。それは、祈るイエスさまの姿です。イエスさまは言う、祈る前から、神さまはあなたの祈りを知っていると。じゃあ、祈る必要がないきもするんですけど、でも、イエスさまとならば、なおさらだとも思います。一体なのですから。とくに、今日の日課の直後にイエスさまの祈りがあります。

 「今、わたしは心騒ぐ、なんと言おうか、『父よ、わたしをこのときから救ってください』とでも言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を表してください。

 そう祈っています。共観福音書の、ゲッセマネの祈りを思い起こさせます。いよいよ十字架が目の前に迫り、イエスさまのわずかな揺らぎが見えるような気がします。わたしは、一体という言葉の方に、強く引きずられているのかもしれません。子なる神様、イエス・キリストは、この世の肉体を受けました。それ以来、食べなければお腹がすくし、飲まなければ渇く、疲れて横たわることもあり、鞭打たれれば痛みます。父なる神とは違う姿を持ちます。不遜な言い回しかもしれませんが、神さまは死んだことがあるのでしょうか。存在の源であり、命の源である神さまは、死んだことがあるんでしょうか。死を目の前にして、イエスさまは、何を思われたのだろうと思います。
 一粒の麦、地に落ちなければ、一粒のまま、しかし、地に落ちればやがて多くのみを結ぶ。麦にかかわらず、種が多くの実を結び、また多くの種を作り出す。私たちにとって見慣れたものですが、命の不思議さを考えると、とても神秘的な現象です。月に行った飛行士で、やがて牧師になった人もいますが、月の印象の一つは、命がない、自分と、あの青く輝く星にしか、命は見えない、そう感じたそうです。命は神秘的なものです。その命の源でもあるイエスさまが、これから十字架の中に入っていきます。それを目の前にして、わずかばかり、揺らぐ姿を見せる。十字架は死ばかりを意味するのではありません。愛したこの世に裏切られる。愛したイスラエルに裏切られる。愛した弟子達にも裏切られる。さらに言えば、十字架は神に見捨てられたものの象徴でもあります。まさに受難です。
 私たちは、したいことだけして生きていくことは許されません。愛したものを手放さなければならないときがあります。進みたくない道でも、すすまねばならないことがあります。コロナもこんなに長いのかと、うんざりしてくる。このトンネルこんなに長いのかと、嫌になってくる。それでも、私たちは、前に進まなければなりません。
 今年の主題も、「主に委ねる」になりました。ある牧師は語っています。主に委ねるって、優しい言葉にも聞こえるけど、それはあなたが、いろんな執着を手放す、そのことも意味している。それは、今まで自分が愛してきたもの、それは今まで自分を支えてきたものかもしれません。でも、それを手放さなければならない時が来ます。それは決して、簡単なことではありません。でも、イエスさまは言います。一粒の麦は、落ちなければ、一粒のままです。でも、主に委ねて手放す、確かな希望を持って手放す。落ちて実をつければ、多くの実をつける、その御言葉を信じて、手放して前へ進む。イエスさまでさえ、わずかな揺らぎを見せている気がします。それでも、イエスさまは茨の道に身を委ねていきます。主の導きに委ねていきます。
 私たちも、時に惑いながら、でも、自分の執着を手放し、主に委ねて前へ進みましょう。