No.47

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年3月28日  主の受難礼拝

マルコ福音書15章1~39節 「十字架につけろ」という叫び 粂井 豊 

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン。
本日から受難週です。教会によっては、この受難週には毎日礼拝を行い、主イエスの受難にまつわる御言葉に耳を傾けながら、神さまの考え、イエスさまの思い、人間の罪、等々について考える時をもつ教会があります。私が札幌中央ルーテル教会に赴任して来た若かりし頃の数年間は、そのような教会を見習って、受難週には毎日夕礼拝を行っていましたが、赴任をしてきて10年目を迎えた頃の受難週とイースターの時でした。具合が悪かったのですが毎日の夕礼拝を行い、イースターを終えてゆっくり休めると思って休んだにもかかわらず、体調が戻るよりもさらに悪くなる一方で、四日目にはウイルス性の急性肝炎で、しかも危険状態ということで、約2ヵ月半の入院をしてしまいました。それ以来、当教会での受難週の日々の夕礼拝は途絶えてしまいましたが、罪の勝利を祝い復活の主イエスをたたえる喜びを得るために、イエスさまが十字架上で亡くなられるまでの苦しみの箇所にしっかり耳を傾けいくことの大切さを覚えながら御言葉を取り次いで行きたいと思います。
イエスさまは、祭司長たちによってポンテオ・ピラトに渡され尋問を受けますが、黙して何も答えられず、なされるままに十字架に掛けられ、亡くなっていかれました。何故、イエスさまは黙して語らず、なさるままにされながら十字架にかかっていかれたのでしょうか。もちろん、わたしたちキリスト者は、それは、私たちの人間の罪を贖うための神さまのご計画であったということを知識では聞き取っています。けれど、私たちは、イエスさまの十字架の贖いによって赦される自分の罪を、どれほど痛みを覚え感じているでしょうか。今日の箇所を通して、私たちは四つの立場の違う人物たちの罪を見せられます。そして、その罪の一つひとつは、私たちの中にも内在していることを知らされるのです。そのことに気づかされないで、その人々の問題性を批判し、私たちはそうあってはならないように教訓的な聞き取りをしている限り、黙して語らず、何の抵抗もせずに十字架にかかって行かれたイエスさまの死の意味が、自分にとってのかけがえの大切なものとはなってこないように思います。
最初の問題ある人たちは、祭司長、長老や律法学者たちです。この人たちは、神さまに仕える人、また神さまのことをとても大切に思い、神さまから与えられた律法を重んじる人たちです。彼らはイエスさまを十字架につけようとピラトに引き渡したのです。何故、イエスさまを十字架に掛けようとしたのかというと、「妬み」のためだと語られています。妬みが群衆を扇動させ、イエスさまを十字架にかけて行ったというのです。ひとごとではありません。私の中にもこの妬む気持ちに囚われる心が根強く潜んでいます。祭司長や長老、律法学者たちは、謙虚に神さまに仕えようとしている歩みをしていた人たちです。単純に、妬む高慢な人とは言えない、ある意味では立派な人たちです。けれど、イエスさまを殺す思いにまで行ってしまいました。それは自分たちの考えやプライドに囚われてしまったからです。プライドを否定されるかのように、自分たちと違う関わりをするイエスさまがほめたたえられることを許せなくなってしまい、自分たちは直接手をくださないまでも実際はその妬みによってイエスさまを抹殺してしまったのです。私たちも、自分のプライドや自分の考えに方に囚われ、自分のプライドを拠り所にして歩んでしまいがちです。それ故に、神さまの赦しの中で生かされている喜びを見失い、イエスさまが山上の丘で「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」と言われていても、すぐさま人を裁いてしまうのです。
二人目は、ピラトです。ピラトはイエスさまを尋問し調べる中で、イエスさまが十字架にかけるようにしているのは、祭司長、長老や律法学者たちの妬みであることが分かっていても、群衆の「十字架につけろ」という声に逆らうことができず、イエスさまを十字架にかけたのです。群衆の声が強く、その群衆を満足させようとして、正しい裁きができなかったのです。その時の強い者の声に負けたのです。以前から問題になっている官僚たちの一連の忖度問題が問題視されていますが、問題は官僚たちだけの問題ではありません。私たちもその状況の中に置かれると、簡単に強い者の声に負けてしまいます。イエスさまは、そうではありませんでした。イエスさまが霊に導かれて四十日間断食をされていた時、悪魔がやってきて、イエスさまを高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った時、イエスさまは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と」言われた。とあるように、神さまとの歩みを大切になさったのです。私たちは、このことの大切さが分かっていても、いざ、その時の状況のただ中に置かれてしまいますと、強い者の声に負けてしまう弱い存在ではないでしょうか。
三人目は、群衆です。祭司長たちに扇動されたとはいえ、何故、イエスさまを十字架につけるように叫びたてたのでしょうか。人々が、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」と言い、 祭司長たちが律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と記されているように、自分を救う奇跡的な力を持って、自分たちの望む救いを与えない者は、必要ないという思う心理に乗せられていったのです。私たちには、自分の考える幸せを望むあまり、その思いを達成させてくれない神さまは必要ないと思う、神さまを第1とはできず自己を第1とした自己中心的な考えに囚われる心が力強く根付いているのです。
四人目は、兵士たちです。兵士たちは、イエスさまに茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し、また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。とあるように、何の抵抗もしない弱い存在に、容赦なく暴力を振るうのです。
少し前から、ミャンマーの兵士たちが、デモをする民衆や、デモの混乱の中で怪我をした人たちを助けようとする医療従事者の人たちに暴力を振るう映像が、世界中に流れました。イエスさまの時代だけではないのです、いつの時代でも、人は、その環境の中に置かれると、弱い者にいとも簡単に暴力を振るってしまう集団心理の中に巻き込まれてしまう心が起きるのです。私たちの中にもそのような力に負ける心がありはしないでしょうか。
このように、イエスさまに関わる4人の人々を通して、私たちも、愛である神さまに従うよりも、自己を優位に置く目先の思いに囚われてしまう心に振り回されてしまう要素を持っていることに気づかされるのです。神さまは、そのような罪の中に陥ってしまう私たちの暗闇の歩みの中にイエスさまを送ってくださったのです。先々週の主日礼拝の福音書の日課で、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」という御言葉を私たちは聞きました。
私たちは、自分で自分の罪を取り除くことはできません。イエスさまを見つめ、イエスさまを信頼し、イエスさまに従って行く中で、イエスさまによって罪から解放されていることを信じる者として生かされ、歩んでいくのです。イエスさまは、暗闇の中に居る私たちの所に来られ、その中に立ち、その中で死んで甦られたのです。そのイエスさまは、今も暗闇の中に堕ちいってしまう私たちと同じ所に立ち、私たちの進むべき道の光として共に歩んでくださっています。パウロは、ローマの手紙の7章で「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と言っています。私たちも、パウロと同じ道が開かれているのです。
人知を超える平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。 アーメン。