No.49

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年4月11日  復活節第二主日

ヨハネ福音書20章19~31節 「 平安をもたらすもの 」 吉田 達臣

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 心理的安全という言葉を聞いたことがあるでしょうか。意味は、自然な自分でいられる場所、ありのままの自分でいられる場所、という意味のようです。最近時々聞く言葉です。調べてみると、グーグルという企業、もしかして、いま世界で一番大きな企業の一つかもしれない会社ですが、チーム全体のパフォーマンスが上がるために最も必要なものが、心理的安全性で、それを大事にしているといいます。この、心理的安全性をよくするために必要なことは、いくつもあるようですが、大事なことの一つは、まず相手をジャッジせずに、人の話をよく聞くことだそうです。ジャッジというのは、良いとか悪いとか、ダメだとか、そういう評価をせずに、まず相手が何を感じ、何を考えてそう言っているのか、相手の身になって、よく聞くということだといいます。
 こまで聞くと、私にとって、以前に聞いたことのある話と関わります。それは、牧会カウンセリングの授業です。ボンヘッファーという人が、「説教と牧会」という本を書いていますが、その中で多くの牧師が勘違いしていることがあるといいます。説教や牧会というのは、何かを語る働きだと思っているが、説教も牧会も本当に大事なことは、聞くことだ、と書かれています。説教は、み言葉に聞くこと。牧会は、信徒の思いを聞くことです。ジャッジというのは、評価という意味もありますが、裁き、という意味もあります。裁かずに、聞くこと。何を言っても、時には自分の弱さを見せても、時には自分のひどい姿を見せても、それでも受けとめてもらえる、そんな場所がほしい、と私たちは思っています。
 今日は復活節、ヨハネによる福音書の復活の場面です。弟子たちは、一つの部屋に集まっていました。家の戸には鍵をかけていたといいます。十字架にかけられたイエスさまの仲間であったということで、自分の身にも危険が及ぶかもしれない、そう思ったのでしょう。ある牧師は、そればかりではなく、イエスさまをも恐れていたのでは、と言います。この直前の場面は、マグダラのマリアから復活したイエスさまに会ったという知らせを聞いた場面です。十字架の場面で逃げてしまった弟子です。裏切りの言葉さえ吐いた弟子です。合わす顔がない、何を言われるのだろう、そんな思いもあったかもしれません。
 私たちも、家に引きこもることがあります。強く鍵を閉めたくなることもあります。心を閉ざすこともあります。閉じこもっていても、何も良くならない、そのことは分かっていても、閉じこもっていたいことがあります。
 イエスさまは、鍵のかかった部屋の真ん中に現れたといいます。弟子たちは、何を言われるのだろうと、思ったでしょう。イエスさまの語ったことは、「平和があるように」ユダヤ人の日常的な会話です。私たちでいえば、「こんにちは」くらいの意味かもしれません。イエスさまは、逃げていき、裏切った弟子たちの前に現れて「こんにちは」と言いました。それだけでも、弟子たちはホッとしたでしょう。しかも、ユダヤ人のあいさつ、シャローム、あなたがたに平和があるように、イエスさまは、全てを赦して、そう言ってくれました。
 イエスさまほど、心理的安全な場所はありません。時には弱さを見せても、時には自分のひどい姿を見せても、必ず受け止めてくれる方。変わらず愛してくれる方です。イエスさまは、あなた自身よりも、あなたの弱さ、あなたの醜さを知っています。それでも、イエスさまは全てを赦して、あなたを愛し続けてくれる方です。
 一人だけ居合わせなかったトマス。話を聞いても、「釘跡に指を入れ、傷に手を入れてみなければ信じないといいます。トマスは、疑り深かったのではなかったと思います。心の底では、確かに復活という信じがたい話ではあるが、この兄弟弟子たちが口裏を合わせて嘘を言っているわけではないことを感じていたと思います。自分がその喜びの場面に居なかった、そのことを悔しく思ってこう言ったのだと思います。
 すると8日後、私たちの数え方に直せば、7日後、一週間後、次の日曜日です。同じ場所、同じ場面で、イエスさまは、トマスにも現れてくれました。最初の礼拝です。釘跡に指を入れ、傷跡に手を入れる、考えてみるとひどいことです。でも、イエスさまは、やってもいいといいます。もちろん、実際にはしませんでした。「わたしの主、私の神よ」そう言ったといいます。イエスさまほど、安全で、安心な存在はいません。そして、イエスさまは弟子たち、そして私たちにも言います。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたが赦せば、その罪は赦される。」あなたも人を赦しなさい。あなたも、隣人にとって、安全な人、安心な人になりなさい。イエスさまは、私たちにそう言って派遣されます。この世界に、わずかでも赦しと愛、平和と平安を作るイエスさまの手伝いをしていきましょう。