No.50

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう

〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。

〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年4月18日  復活節第三主日

ルカ福音書24章36~48節 「 苦しみを受け、復活する 」 吉田 達臣

 24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。

 今日の日課、多くの日本人の牧師が、喜んで語るエピソードがあります。わたしも以前話しているのですが、初めての人もいるので、付き合ってください。椎名麟三という戦後間もなく活躍した、クリスチャン作家の話です。椎名麟三が、郵便為替を受け取るために、郵便局に行ったそうです。すると、本人確認できるものを出してくださいと言われた。今言うと、意味が分からないのですが、私が子どもの頃、自分で電車の切符も買えないおじさんがたまにいました。椎名麟三もそういう類の人だった。本人確認できるものと言われても、そんなものは持ち合わせていない。でも、最初は余裕があった、だって、間違いなく本人なのですから。カバンをひっくり返して、色んなものを差し出してみるが、それじゃあ本人確認にならないと言われる。しまいには、怒ったり、泣いたりしてみるが、一向にお金は出してくれない。1時間くらい七転八倒してみたが、結局お金はもらえなかった。作家の習性なのか、自分の状況を客観的に見て見ると、笑いが込み上げてきたといいます。中年のおっさんが、自分が自分であることを証明しようとして、七転八倒して、証明できないでいる。笑いが込み上げてきたそうです。その時、ある聖書の箇所が思い浮かんだそうです。それが今日の箇所、イエスさまが、亡霊ではないといって、魚を食べてみせた、という箇所です。これはネタではない、これは作り話ではないと直感したそうです。作り話は、なるべく本当っぽく作るといいます。だから、あんまり変なことはぶっこめない。捏造したラインの記録に、センテンス・スプリングって、捏造なら普通入れられない。ああ、これは本当の話だと、作家の勘で直感したといいます。
 今日はルカ版の復活の話です。ヨハネと同様に、鍵をかけた弟子たちの部屋の真ん中に、復活のイエスさまが現れ、あなたがたに平和があるように、そう言って現れる。うろたえている弟子たちに、私は亡霊ではない、と言って魚を食べて見せたといいます。
 そしてイエスさまは言います。私について、聖書に書いてある、ここでいう聖書とは、旧約聖書のことですが、聖書に書いてあることは必ず実現する。イエスさまは弟子たちの心の目を開いて、メシアは苦しみを受けて、三日目に死者の中から復活する。そう語ります。先週、旧約聖書を読んでいれば、メシアは苦しみを受けて復活する、ということが予感できるのだろうか、ふとそう思って、聖書が悟れるように、心の目を開いてください、と祈りながら、旧約聖書を読み返してみました。
 三日に目によみがえる、というのは引照付き聖書だと、ホセア書6章2節って書いてあるので、まず、ホセア書全体を読んでみました。ホセア書って、少し不思議で、イスラエルの罪を徹底的に告発する箇所と、そのイスラエルを憐れんで必ず助けるという箇所が交互に出てきます。いや、ホセア書だけでなく、旧約聖書は、徹底的にダメにされ、ようやく自分の罪に気づかされ、でも気づいた時には、もうどうしようもない状況の中にいる。でも、そこから不思議と助けられる、そんな話がたくさん出てきます。アダムとエバ、カインとアベル。アブラハムの孫、ヤコブの話、その子ヨセフの話もこのパターンです。バアル神に傾倒し、ダメになり、でも助けられる。バビロン捕囚で徹底的に叩きのめされる。自分たちの傲慢、自分たちの問題に気づいた時には、かなり手遅れの状況なのに、不思議な形で回復される。ヨブの話も、ヨナの話も、問題があらわにされ、どん底に落ちたところで、不思議と助けられていく。出エジプトの話自体も、その途中での、モーセにもんくを言い、神さまにもんくを言う、蛇にかまれ、自分たちの問題に気づくと、不思議と助けられる。
 いや、これは聖書ばかりではありません。あなたの人生の話なんです。注意されても、何とかなると思い、自分の力で切り抜けられると思っていたが、やはりうまくいかず、徹底的にうまくいかなくなる。ああ、自分は甘えていた、自分は傲慢だったと、ようやく気付いた時には、もうどうしようもなくなっている。でも、そんな時に不思議と助けられる、不思議な助け手が現れる。あなたの人生も、その繰り返しだったんじゃないだろうか。

24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。

 神さまの最後の目的は、あなたを救うことです。あなたが自分の問題に気づくため、悔い改めに導くため、時々人生には苦しい道のりがあります。そこまでしないと、気づけないから。でも、神さまの本当の目的は、あなたを救うことです。復活させることです。復活の主を共に祝いましょう。