No.56

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年5月30日  三位一体主日

第一日課 イザヤ書6章1~8節 第二日課ローマ8章12~17節
ヨハネ福音書3章1~17節 「 愛する喜び 」 吉田 達臣

3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 

 今日の福音書には、ニコデモという人が出てきます。厳格に律法を守る、ファリサイ派に属しており、議員であったと書かれています。日本でいえば国会議員にあたる、最高法院に属するものでした。おそらく周りから、尊敬されている人だったと思います。このニコデモ、どこかでイエスさまのなさる奇跡、聖書では独特の言葉づかいで、しるし、と言いますが、イエスさまのしるしを見た。何か心動かされるものがあったのだと思います。ニコデモは、夜、イエスさまのもとを訪ねます。ニコデモはイエスさまに言います。あなたは神のもとから来た方、神さまが共に居なければ、あなたのなさるようなしるしはできないと。イエスさまは答えます。

 「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

 この会話はかみ合っていないように見えます。ここばかりではなく、イエスさまとニコデモの会話は、終始かみ合っていないようにも見えます。聖書では、この直前に、イエスさまの奇跡、しるしを見て、多くの人がイエスさまを信じたが、イエスさまの方は、その人たちを信頼されなかったと書かれています。多くの人は、イエスさまが病気を治すその力を見て、すごい、この方について行きたい、そう思ったのかもしれません。しかし、イエスさまの、奇跡の本質、しるしとして、何をしるしているのか、だれも分かっていない、と思われた。それが分かるためには、ちょっと視点を変えるとか、考え方を変えるとか、そんなものでは足りなくて、その人が根底から変わる、新たに生まれるくらいをしなければ、それは見えてこない、とここでイエスさまは言っているのです。その後は、生まれ変わるなんてことはできるのか、そんなことはあり得るのか、という会話が続いていきますが、私たちにとって、どこか要領を得ない、もどかしいような会話が続いていきます。
 私たちが知りたいのは、今の自分では何が足りなくて、どう変わらなければいけないのか。変わるためにはどうしたらよいのか、そこを知りたいと思います。
 生まれ変わった後の姿、それは、この箇所だけではわかりにくいですが、聖書全体を読むと、いくつかのヒントがあります。聖書の中には、このニコデモと似ている人が出てきます。他の福音書に、富める青年の話が出てきます。ニコデモと同様に、議員でもあり、ファリサイ派には属していないが、子どもの頃から神さまの戒めは全部守ってきたといいます。もうそれで、十分に満足していればいい気もするのですが、この青年もニコデモと同様、イエスのもとを訪れる。こんな自分で十分だろうかと、イエスさまに確認に来る。イエスさまはこの青年に言います。あなたには足りないものがある。あなたの持っているものを貧しい人、持っていない人に施しなさい、そう告げています。
 もう一人、ニコデモと似た人が出てきます。新約聖書の後半の中心人物の一人、多くの書簡を書き、使徒言行録で最も登場する人物パウロです。この人も、ニコデモ同様、ファリサイ派に属していた。キリスト教を迫害するほどの熱意もあり、ローマの市民権も持っていたといいます。イエスさまに出会うまで、このようなものがパウロの誇りだった。しかし、イエスさまに出会った後、その誇りにしていたものが、かえって自分の穢れ、塵芥に思えたと書かれています。そしてパウロは聖書の中で、こう語ります。「受けるよりも、与えるほうが幸いである。」ここにパウロの変化の軸があります。パウロが回心をし、生まれ変わってどう変わったのか、重要な中心があります。
 パウロはそれまで、自分が獲得してきたもの、自分が積み上げてきたもの、自分が勝ち得た栄誉を誇りとして生きてきました。しかし、イエスさまに出会って目からうろこが落ちる。イエスさまによって新たに教えられたこと、それは、、与える幸いであり、人を救い、人を生かす幸いであり、人を愛する喜びでした。
 それまでは自分ばかりを誇っていた。それまでは、自分しかいなかった。しかし、イエスさまは、人を救うために、自分の命を差し出される。神さまは、自分のひとりごをも差し出される。なぜ、そうするのか。それはその人を愛したから、この世を愛したからだといいます。
 今日の福音書の後半の部分で言われていることは、一見分かりにくいのですが、人はそんな風に変わることができるのか、そんなことはあり得るのか、という問いに対し、人間にはできなくても、神さまにはできる、そう言っているんです。自分の事ばかりを考えていた自分が、人を愛する喜びを味わえるような、そんな人間に変わることなどできるのか、という問いに対し、できる、神にはできる、そう語られているんです。
 人間の方で、私たちの方で出来る事は、何もないのかもしれません。ですけど、私たちは祈りましょう。これまで、自分の事ばかりにとらわれて生きてきました。人を愛することに、貧しいものです。こんな私にも、人を愛する喜びを教えてください。人を救い、人を生かす喜びを、一度でもいいので、与えてください。私を変えてください。そう祈りましょう。私の人生に、人を愛する喜びを、お与えください。御心であれば、できれば、豊かにお与えください。

〇 神さまにお祈りしましょう
〇 よく合う讃美歌  教会賛美歌 129番「そむくわれらをも」
                 131番「せいなるせいなる」