No.57

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年6月6日 聖霊降臨後第二主日

第一日課 創世記3章8~15節 第二日課 Ⅱコリント4章13~5章1節
マルコ福音書3章20~35節 「 嫉妬を捨てて 」 吉田 達臣

3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 今日の日課から、またマルコによる福音書に戻っていきます。マルコには、サンドイッチと呼ばれる話の構造が時々出てきます。一つの話の間に、関連するもう一つの話が挟まってくる。今日の箇所もそうで、イエスさまの家族の話に、ベルゼブル論争と呼ばれる話が挟まっています。
 イエスさまの母を聖母、イエスさまの家族を聖家族という呼び方をする人もいますが、私たちと同様欠けを持った人間であることは間違いありません。聖書の中で、家族と呼ばれるものは、とても大事なものであると、繰り返し教えられます。理由なく愛する、神さまの無償の愛に、この世で一番近いものを持っているからです。しかし、私たちが経験しているように、家族は毒にもなる。親が世間体を気にして、子どもを振り回すこともあります。また、身内へのひいきが激しく、世の中に歪みを与えることがあります。今回は詳しくは話しませんが、この箇所にはその暗示があります。
 それよりも、この時代の中で、真摯に耳を傾けたいのは、ベルゼブル論争と言われる話です。イエスさまが悪霊を追い出したという話を聞くと、当時の宗教的な指導者であったエルサレムから来た律法学者は、イエスさまが悪霊の頭であるベルゼブルに取りつかれており、悪霊の頭の力で、悪霊を追い出している、と噂をたてたといいます。
 悪霊などときくと、現代に生きる私たちにとって、縁遠い話をしているようにも聞こえます。でも、この話の中には、現在の私たちの姿があります。
 問題は、なぜ律法学者は、イエスさまを悪霊の頭呼ばわりしたのか、というところにあります。それは明らかに嫉妬です。嫉妬はカインとアベルのころから表現されている、人間の根深い問題です。恋愛に関わる嫉妬もありますが、この場面での嫉妬は、自分より優れたものに対する嫉妬です。嫉妬心は、自分よりも優れたものを見て、そこに追いつこうとするのではなく、足を引っ張るという形で、自分より引きずりおろすという形で、自分の屈辱を解消しようとする思いです。誰も得をしない、みんながダメになるという形で、屈辱を解消しようとする姿です。
 そして私たちがドキリとさせられるのは、心理学者の土居健郎先生が、マルタとマリア、放蕩息子のたとえ話を解説しながら、嫉妬は正義の仮面をかぶって顔を出す、と言います。自分は嫉妬しているんじゃない、正義を行っている、そういう姿で嫉妬が出てくるといいます。イエスさまを十字架につけた人も、自分は神に仕えていると思っていたと聖書には書かれています。
 今は正義が過剰に振りかざされている世の中です。自粛警察、マスク警察、62歳の町長がキャンセル分で先にワクチン打ったとか、深夜に飲み屋でデートしていたとか。私たちの正義の中には、本当に嫉妬の成分は入っていないでしょうか。嫉妬して、足を引っ張り合い、内輪で争う悪霊よりも醜い姿を持っていないでしょうか。お互いがお互いを批判し合ってばかりいる国は成り立っていくのでしょうか。
 自分が損したわけではないけど、誰かが得したという話を聞くと、何か損をした気分になるのが私たちです。神さまの気前の良さを妬むのが私たちです。罪人が赦され、愛されるのが、腹立たしくなるのが私たちです。そのせいで、私たちは、自分を救ってくれる救い主を十字架にかけていく人間だと聖書は教えます。
 カインとアベルの頃からある、嫉妬は人間の根深い問題です。おそらく生涯、自分の心から、全く消えてなくなることはないでしょう。しかし、私たちは、聖書を通して、その問題があることには気づけるものです。
 気づいた私たちから、人類の内輪もめをやめていきましょう。足の引っ張り合いをやめていきましょう。私たちが嫉妬に駆られ、救い主を十字架につけてしまっても、神さまは聖霊を送り、私たちをなお赦し、なお愛するために教会を与えてくださいました。
 恵み深い神さまは、あなた以外のものも赦し、あなた以外のものも愛し、あなた以外のものにも恵みを与えられます。だけど、あなたへの愛は永遠です。だから、嫉妬から聖霊を汚すのはやめましょう。自分が恵まれることと、自分が恵まれるのと同じように隣人も恵まれることを祈って、新しい一週間を始めていきましょう。