No.60

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年6月27日 聖霊降臨後第5主日

マルコ福音書5章21~43節 「 愛は負けない 」 吉田 達臣

5:21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 5:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。 5:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 5:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 5:43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 先日幼稚園の園庭で遊んでいたら、年長の女の子で、なんだか落ち込んだ雰囲気で、一人で歩いている子がいました。どうしたのなんかあったの、と聞くと、私大きくなっても結婚してくれる人がいないの、って言うんです。よく話を聞くと、自分の好きな男の子が、違う女の子と結婚するって言ったみたいなんです。色んなことを言って、励ましましたけど、でも直に会うって大切だと感じました。なんとなく落ち込んでいるっていうのが、少しわかる。今日皆さんと、久しぶりに直にお会いできました。直に会えれば、何でも分かるわけではありませんが、直に会えると伝わるもの、伝えられるもの、感じとれるものが多くなります。

 今日の福音書の箇所、私たちは直にこの人たちに会えない分、五感、六感を使わなければなりません。漫然と読むと、こんな病気が治る、奇跡のようなものが本当に起こるのだろうか、と言った思いしか持てない。今日の話は、二つの話がサンドイッチ構造になり、しかも深く絡み合っています。
 外側の話は、会堂長ヤイロとその娘の話です。会堂長というのは、教会の役員のようなものらしい。ユダヤの国のユダヤ教の会堂の役員ですから、社会的にも地位や力があり、多くの人から尊敬されていただろうと言われています。しかし、どんなに地位や力があっても、このヤイロは自分のことをとても無力であると感じていたと思います。ヤイロには12歳の娘がいる。小学校6年生くらいの娘です。子どものあどけなさと、未来の可能性が満ちていることを感じさせる年齢です。その12歳の娘が死にそうになっている。おそらくやれることは全部やったと思います。それでもよくならない。そこに、人の病を癒したという噂のイエスさまが、船に乗ってこちらに来ているという話を誰かに聞いたのでしょう。ヤイロは岸でイエスさまを待つ。なかなか近づいてこない船を、焦れる思いで待っていたでしょう。イエスさまを見つけると、地面にひれ伏したと書かれています。しきりに願ったと書かれています。あなたが娘に手を置いてくれたらきっと癒される。お願いします、と言ってしきりに願ったといいます。イエスさまとヤイロは出発する。

 後ろから大勢の人もイエスさまを追いかけたといいます。その中に、一人の女性がいる。12年間、出血が止まらない女性です。治療のために、全財産を使ったといいます。それでも治らない。それどころか、酷く苦しめられ、ますます悪くなったといいます。更にレビ記15章の後半を読むと、出血している間は、その女性は汚れており、その女性が触ったものも汚れる、と書かれています。この女性は、12年間、自分のことを穢れた存在だと感じながら、生きてきた。自分が触ったことで、その人を穢していくと思いながら、12年間生き続けた人です。ですから、この女性は、イエスさまに対して、私に手を置いてくださいとは頼めなかった。このチャンスに、分からないように、イエスさまに触れれば、癒されるかもしれない、正確に言えば、イエスさまに触れなくても、イエスさまの服にでも触れれば癒されるかもしれない、そう思いイエスさまの服に触れる。その時、この女性は、自分が癒されたのが分かったといいます。しかし、同時にイエスさまも、自分から力が出ていったのを感じたといいます。イエスさまは、だれが触れたのかと、探し回る。ヤイロは、一刻も急ぐ中、気が気でなかったと思います。弟子たちは、今群衆が来ているのに、分かるわけがないという。この女性は、イエスさまは誰かがの力をかすめ取ったこと、汚れた手で触れたことに、この方は気づいたのだと思ったでしょう。

 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 イエスさまは、この女性が、力をかすめ取ったと思いながら生きるのではなく、あなたの信仰があなたを救った、元気に暮らしなさい、そう言ってあげなければならないと感じたのでしょう。
 ただ、一方で、ヤイロの娘が死んだ、手遅れになった、ということ告げる伝令が来る。ヤイロは絶望したと思います。しかし、イエスさまは、恐れることはない、信じなさい、と声をかけ、ヤイロの家に行き、その娘を生きかえらせます。
 私たちは、お茶でも飲みながら、聖書を読めば、こんなことが起こるのだろうか、と思うくらいで終わってしまう。しかし、状況を深く知っていくと、奇跡を祈るものの一人に変えられていきます。奇跡なんてめったに起こらないから奇跡です。生涯そのようなものにたくさん出会えるということはありません。でも、人間の本当に尊いところは、人の痛みや苦しみを感じ取り、自分の胸を痛めることができることです。私たちは、胸を痛めて、ヤイロ、ヤイロの娘、長年病を抱えた女性のために、祈る思いが与えられる。人の痛みに、自分の胸を痛めること、そこにこの世界にあるいろんな問題を解決できる鍵があります。
 何気なく書かれていた、ある牧師の言葉が、妙に胸に響く。ユダヤ人も悩み、苦しみ、絶望する。もちろんユダヤ人だけではありません。ロシア人も、中国人も、あの人も、嫌なあいつも、悩みや苦しみを抱えています。イエスさまも、鞭打たれ、十字架にかかられました。痛みの中で、人はつながり、人は和解する可能性が与えられ、互いに助け合う思いが与えられていきます。聖書に出てくる、憐れみ、という言葉は字義通り訳すと、胸痛む、はらわた痛む、という言葉です。イエスさまは、憐れみ深い、それが聖書の教えです。
 憐れみ深いイエスさまの御姿を胸に刻んで、新しい一週間を始めましょう。