No.61

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年7月4日 聖霊降臨後第6主日

マルコ福音書6章1~6節 「 精一杯 」 吉田 達臣

6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。
イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。 7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、 8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、 9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。 10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。 11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」 12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 最近前の大河ドラマの「麒麟がくる」というドラマを見ているのですが、戦国時代、明智光秀や織田信長の話なんですけど、ちょうど先週見た場面で、織田信長が弟を殺す場面がありました。お互いが自分にないものを持っている兄弟に対して嫉妬している。思いの行き違いがなければ、うまく補い合えるのに、そう思うのですが、結局殺し合ってしまう。今日の福音書では、イエスさまが自分の育った故郷、ナザレで受け入れられない、という話です。最初はイエスさまの話を聞いて驚く、すごいと思う。でも、その思いをすぐに打ち消し始める。

 「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。

 人は、遠くの国の違う時代の人なら、素直に尊敬できる。でも、身近な人、親類や兄弟などは、素直にその人の良さを認めることができない。その人の良さを目の当たりにしても、こんな悪い部分も弱い部分も自分は知っている、そんな思いが浮かんでしまう。これは決して小さな出来事ではありません。その思いが、自分を救ってくれる人を十字架にかけるようなことに繋がっていくと聖書は教えています。
 嫉妬は憧れと表裏一体です。人は力のないものに嫉妬することはありません。パウロはキリスト者を迫害するものでしたが、一転してキリストを伝道するものになります。左端から、右端に大きく移動したわけではありません。同じ位置で、回れ右したような変化です。嫉妬は憧れと表裏一体です。問題は素直になれるかどうかです。
 あるカトリックの信徒の方が、本の中で、こんなことを語っていました。このコロナの時代、心掛けなければいけないことは、一日一日を自分の精一杯で生きるということです。自分のできる精一杯をしていたら、人のことが気にならなくなる。たとえ負けていたとしても、自分の精一杯をしたのだから、仕方がないと、すがすがしく負けることができるといいます。今、この時代は、過去の自分と比べる必要もないといいます。よく、人と比べず、昨日の自分と比べなさい、と言われたりするが、今は、去年まで繁盛させていたレストランに今日は誰も来ないということが十分起こる世界です。ですから、前の自分とも比べず、今できることを精一杯やること。精一杯やることって、実は少し恐ろしい。精一杯やって、こんなもんかと、自分の力の無さを見せつけられるのを怖く感じる。だから、自分の中で言い訳を残しておきたい。状況さえ違えば、こんなはずではないとか、今は時代が悪いとか。あれのせいだ、あいつのせいだ。まだ本気出してないとか。
 でも、実は、本当はかなり多くの人が、今できることを精一杯やって今日から生きようと志を変えても、実態はそんなに変わらなかったりします。その理由は、今もすでに、大体、今できることを精一杯生きているからです。自覚し、認めていないだけで、結構今できることを精一杯やっています。あとは、それをこれが今の自分と認めることが大事なんです。これが今の自分の精一杯、それを素直に認めることができると、人に助けてもらうことも、人の教えを謙虚に聞くこともできるようになります。
 この話は、その本の中で、死への恐れを和らげるにはどうすればよいか、という話から始まっているんです。私たちは、先祖から、職場の先人から、教会の先人から、バトンを引き継いでいる。タスキを引き継いでいる。大事なのは、区間賞をとることでも、何人か抜かして前に出ることでもありません。そこを意識して、ペースが乱れることもあります。本当に大事なのは、今自分のできる、自分のベストの走りをすることです。それができれば、人よりも遅くても、自分のできる精一杯をしたのだからしょうがないと、次の人に清々しくバトンを渡すことができる。たとえ人より遅くても、昔の自分より遅くても、その時出来る、精一杯をやった人の姿は、心揺さぶられる思いをするものです。
 今日の日課の後半は、十二人の弟子たちを二人一組にして、派遣する場面です。宣教をするためというより、弟子たちの実習に近いかもしれません。その時、イエスさまが弟子たちに言ったことは、何も持っていくな、ということです。パンも袋もお金も、予備の下着も持っていくな。退路を断って、身一つで、とにかく一所懸命やってきなさい。神さまに与えられた力を信じて、今できる、精一杯をやってきなさい、そう言って送り出す。弟子たちの奉仕は、まだまだ未熟なものだったかもしれません。でも、未熟でも、へたくそでも、その人が精一杯やってくれている奉仕は、不思議と人に届いたりします。イエスさまは、そのことを弟子たちに体感させたかったのかもしれません。
 私たちも、人に比べれば、小さな働きしかできないかもしれません。若いころのような働きはできないかもしれません。
 でも、今できる精一杯で、自分のため、隣人のため、神さまのために仕えていきましょう。一日一日、今自分のできる精一杯で日々を生きていきましょう。