No.64

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年7月25日 聖霊降臨後第9主日

ヨハネ福音書6章1~21節 「 わたしがいる 恐れることはない 」 吉田 達臣

 6:1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
6:16 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。17 そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。18 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。19 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。20 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。

 今日からしばらく、マルコによる福音書を離れて、ヨハネによる福音書を読んでいきます。とは言っても、先週の日課は離れたに箇所でしたが、五千人の給食の手前の部分と、イエスさまが湖を渡った後の部分でした。福音書は違いますが、今日の日課は、その間の部分、飛ばした部分の話です。
 ヨハネによる福音書は、他の福音書と共有しない独自の話が多い福音書です。しかし、五千人の給食は、四つの福音書に出てくる珍しい話です。湖の上を渡るイエスさまの話も、マタイ・マルコと共有しています。おそらく、多くの弟子たちにとって、印象深い、何度も思い返した出来事なのかもしれません。
 同じ出来事でも、少しずつ違いがあります。同じ事件でも、新聞によってとらえ方、スポットの当て方が変わっていきます。ヨハネによる福音書では、五千人の給食の話に、一人の子どもが出てきます。イエスさまがフィリポに、ここにいる五千人を食べさせるには、どこでパンを買えばいいか尋ねる。フィリポは答える、200デナリオン、普通の人の年収分のお金があっても無理でしょうと。するとその会話を聞いていたのか、子どもが自分の持っている五つのパンと、二匹の魚を差し出します。ヨハネでは、大麦のパンと書かれています。普通は、パンは小麦から作るもので、大麦は家畜のえさになったといいます。この少年はおそらく貧しいものであるか、恐らくは奴隷であったのだろうと言われています。貧しい少年が自分の持っているものをイエスさまに差し出す。すると、イエスさまはそれを祝福して用いてくださる。そして、そのパンと魚を配ると、全ての人が満足し、なお余るほどであったといいます。ヨハネを読んでいくと思う。この少年は、きっとすごくうれしかっただろうと。
 私たちの人生にも何度か印象深く、自分の力には分不相応なほどの、良い働きができることがある。私たちはずるいので、あれは全部自分の力で、自分の手柄だと思いたくなる。でも実際は、そんな良い働きはめったにできない。あの時は間違いなく恵まれていた。あの時は、神さまが用いてくださったんだと思います。本当は普段の日々の働きだって、自分の実際の力にふさわしくないほど、良い結果を出している。違う場所でも、今と同じような結果が出せるかというと、そうとは限らない。私たちは恵まれていることに気付いていないといけません。
 その後弟子たちだけで、船に乗って向こう岸に渡ろうとする。すでに暗くなっていたといいます。そこで、強い風が吹き、湖があれ始める。漕ぎ悩んでいると、イエスさまが後ろから、湖の上を歩いてくる。おそらく弟子たちは、それがイエスさまだと気づいていない。するとイエスさまは、私だ、恐れることはない。そう言われ、弟子たちはイエスさまを船に迎え入れる。すると間もなく、船は目指す地についた、と書かれています。マタイやマルコに比べ、ヨハネの話はあっさり終わる、という印象を受けます。
 ヤクルトの監督をしていた野村監督が、自分が見てきたクローザーで、大魔神佐々木が1番だったといいます。ベイスターズが勝っていて、9回に佐々木が出てきたら、ああ終わったと思ったそうです。観客も、そう思う人もいて、佐々木がコールされると帰り始めるヤクルトファンがたくさんいたそうです。弟子たちが、船にイエスさまを迎え入れた時点で、もう試合終了。あとはもう、間もなく、船は目指す地についたと書かれています。
 弟子たちは、イエスさまの昇天後、教会を始めていく中で、何度もこの二つの出来事を思い出したと思います。求められていること、期待されていることは大きいのに、自分たちの力は乏しい、そういう思いの中で、この五千人の給食を思い出し、持てる貧しいものをすべて出そうと思い、思いがけず、多くの人が喜んでくれた、そういったことがあったと思います。困難に出会い、暗闇の中で、孤立無援、漕いでも漕いでも前に進まず、おぼれそうになる、そんな場面も何度もあったと思います。でもそんなときに、イエスさまが海の上を歩いてきてくださり、私だ、恐れることはない、そう声をかけ共に舟に乗ってくれたこと。わたしだ、と書かれていますが、聖書の中で、特にヨハネの中では特別な言葉です。ギリシャ語で、エゴー・エイミー、英語にするとアイ・アム。出エジプト記3章に、モーセが神さまに、名前を訪ねる場面があります。神さまの名前は、私はある、私はあるというものだ、そう答えています。英語にするとI am that I am ある神学者は、存在の根底、と呼びました。原因なく、最初から存在するもの。ヨハネ福音書では、このエゴ―・エイミーは神を表す言葉として意識的に使っています。わたしだ、というこの時の言葉も、エゴ―・エイミー、アイ・アムです。弟子たちが困難の時、恐れに心が支配されているとき、イエスさまの声で、「私がいる、恐れるな」その声を思い出したかもしれません。
 時が来たならば、イエスさまはあなたを用いて大きなわざを成し遂げてくださいます。困難の時にも、私がいる、恐れることはない、そう言って共に船に乗り込んでくださいます。我弱くても、恐れる必要はありません。イエスさまは、あなたを愛しています。