No.65

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年8月1日 平和主日

ヨハネ福音書15章9~12節 「 それでも 愛し合おうとすること 」 吉田 達臣

9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
 今日は平和主日という主日です。日本の中で第二次世界大戦以降、8月は平和について考えさせられる月です。ただ、この時代、以前より、国と国との戦争は起こりにくくなっているかもしれません。人間がよくなったという意味ではなく、グローバル時代になり、国同士がお互いに依存しており、利害が複雑に絡んでいるからです。でも、もしかしたらやがて大きな争いに発展するかもしれませんし、そうはならなくても、日常的に起こり続けている争いがある。今は、パソコンやスマホから、だれもが自分の意見を発信できるようになりました。その中で、批判し合うような、非難し合うような言葉が実に多い。誰かが失言すると炎上し、不正や不倫が見つかると、息もするなとばかりに、何をしてもたたき続ける。まるでお互いが監視し合っているような社会です。アンチといわれるような、何をやってもたたくという姿勢の人もいる。差別的な発言もある。それがやがて大きな争いに発展する可能性もあると思えたり、そうはならなくても、日常的に辟易している。こんな時代を変えるカギはあるのでしょうか。
 私が最近気づいたのですが、いつの間にか習い性になっている自分の心の姿勢がある。努力し、良い結果を出した人には、良い報いを与えるべきであり、成果を出せない人は苦しんでしかるべきである、そういう思いには立てない、ということです。因果応報的と言っていいかもしれません。良いことをした人には、良い報いを、悪いことをした人には、悪い報いを、この考え方には、反発を感じます。恐らく、聖書の影響だと思います。
 聖書には、どうしても罪を犯してしまう人間の姿が繰り返し描かれている。禁じられたことを破ってしまう人間。嫉妬して自分より優れたものの足を引っ張り、殺してしまう姿。奴隷から解放されて喜んでいたにもかかわらず、道のりが険しいとすぐに文句を言う人間。自分もかつて貧しく、弱かったのに、自分が豊かになると、そのような人を助けなくなる人間。若いころ素晴らしい王で、謙虚であったものが、栄華を極めると不遜になり、傲慢になる姿。信じると誓ったのに、いざというときに逃げたり、裏切ったりしてしまう人間の姿。教会で活躍したパウロも、かつては迫害者であった。ずっといいなんてありえない。今がよくても、それは恵まれただけ。自分自身はいつだって危うい。最初から最後まで良いなんてありえない。傲慢にもならず、卑屈にもならないのは、至難の業で、いつだってすごく危うくて、いつ転落するか分からないのが人間。それが私の心の習い性になっている。だから、良いものが良い報いを受け、悪いものが悪い報いを向ける。そんな世界は不安です。今がたまたま良くても、自分は危うい。ダメだった過去もあるし、良かったのに転落したこともあるし、これからも危うい。
 今日の箇所は、最後の晩餐の中の言葉。ヨハネ福音書では、最後の晩餐は、イエスさまが弟子たちの足を洗うところから始まる。それは13章の始まりで、イエスさまがこの世を去ることを悟り、弟子たちを愛し、この上なく愛し抜かれたから、弟子たちの足を洗ったといいます。洗い終わった後、イエスさまは弟子たちにいます。私があなたがたの足を洗ったように、互いに足を洗い合いなさいと。今日の箇所でイエスさまは言う。私の愛にとどまりなさい。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。愛の中には、足を洗い合うことが含まれています。お互いの汚れをとってあげることです。お前の足は汚いとののしり、お前の足だって汚いと罵り合うことではありません。自分も汚れたものとして、罪人として、できないものとして、貧しいものとして、足を洗い合いなさいと言われます。今、たまたまうまくいっていても、かつては失敗したし、今でもいつでも危ういものとして、裁き合うのではなく、足を洗い合い、助け合い、愛し合いなさいとイエスさまは教えます。出来る者が、出来ない者にするのではなく、出来ないもの同士として。互いに足を洗い合うこと、互いにまた、愛し合おうとすることをイエスさまは命じます。このイエスさまの教えにも、留まれない、いざとなったら裏切り、逃げるその危うさを自分自身が抱えるものとして、それでも従おうとし続けること、それでも愛し合おうとすること、裁き合うのではなく、赦し合い、救おうとすること、これが平和をつくり出す鍵です。自分ができるもの、信じられるものとして、出来ない者、信じられないものを助けようとするなら、きっと平和は与えられません。自分もできないものとして、危ういものとして、それでも裁き合うのではなく、愛し合おうとしよう、そう呼びかける姿勢に、平和の鍵がある。それは平和を作り出すだけではありません、赦し合い、助け合い、愛し合うことの中には、喜びがある。
 11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
 イエスさまの愛にとどまり、愛し合おうとしていきましょう。何度も失敗しながら、何度も裏切りながら、それでも愛し合う喜びを、この人生の中で感じていきましょう。