No.66

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年8月8日 聖霊降臨後第11主日

ヨハネ福音書6章35 41~51節 「 イエス・キリストが分かる 」 吉田 達臣

 6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
 6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。48 わたしは命のパンである。49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 今日の説教題、イエス・キリストが分かる、というタイトルを付けました。イエスさまを救い主だと思う、それは当たり前の感覚ではない気がします。私たちが少し有利なのは、この信仰がすでに2000年続いており、世界中に広まっていることを知っています。何もないものがこんなに続くはずはない、という信頼感はあると思います。でも、だれもが信じているわけでもありません。イースターの記事なんかを読んで、改めて思うことがあります。最初使徒たちは、女性たちからイエスさまが復活したという知らせを聞いても信じなかった、と書かれています。死者の復活なんて、普通最初聞いて信じられるものじゃないと、聖書自体が語っています。
 今日の日課、少し前から読んでみると、6章の初めは5千人の給食の話です。イエスさまは、追いかけてくる人たちに言います。パンを食べて満腹したから、私を追いかけてくるのかと。あのようなパンは、一時的な満足、一時的な救いにすぎないと。私が本当に与えようとしているパンは朽ちないパンであり、永遠の命に至る食べ物だと、イエスさまが語っていきます。そのパンは、イエス様自身であり、イエスさまは天から下ってきたパンだ、そう語ります。そして今日のところに繋がります。

 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」

 ここを読み進んで60節には、こうも書かれています。
弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
 66節では、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった、とも書かれています。
 大工の家で育ったナザレのイエスが、天から遣わされた神の子であり、救い主であると信じられることは当たり前のことではありません。44節に、父なる神が引き寄せてくださらなければ、だれもイエスさまのところに来ることはできないとイエスさまは言います。信仰は、神さまが与えてくれるものであると。
 教会讃美歌の中に、讃美歌307番、この人を見よ、と呼ばれる日本で出来た讃美歌があります。多くの人に愛されている讃美歌です。前半は、およそ神さまには見えない、人であるイエスさまの姿が描かれます。1番の歌詞は、まぶねの中に産声上げ、匠の家に人となりて、貧しき憂い、いくる悩み、つぶさになめし、この人を見よ。2番は、食する暇もうち忘れて、虐げられし人を訪ね、友なき者の友となりて、心砕きし、この人を見よ。3番は、全てのものを与えし末、死のほか何も報いられで、十字架の上に上げられつつ、敵を赦ししこの人を見よ。馬小屋で生まれ、大工の家で育ち、貧しさも苦しさも知っている。食べる暇も、寝る暇もなく、虐げられている人、友なき者のもとを訪れ、全てを与えた結果、与えられたのは、十字架の死。その十字架の上でも、十字架にかけているものが赦されるように祈っている。そして4番で、この人を見よ、この人にこそ、こよなき愛は表れたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたるいける神なれ。そういう歌詞です。この方こそ、いける神であり、救い主だと、なぜ思えるのか、自分でも理屈では説明できない。でも、私が信じていることは、ここにいる人ばかりではなく、多くの人が、そう感じられる可能性を持っている。このイエスさまが、救い主だと思える、この不思議な感覚、この恵みを感謝したいと思います。この一週間も、この救い主に従って歩んでいきたいと思います。