No.67

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年8月15日 聖霊降臨後第12主日

ヨハネ福音書6章15 51~58節 「 愛を感じる 」 吉田 達臣

51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 幼稚園の園長をしていたころ、入園前に保護者の方と話をしていて、心配なこととして、お弁当をちゃんと自分で食べるだろうか、という話をよくしました。好きなものなら、自分から食べる、だから決して自分で食べられないわけではない。でも、すぐに食べさせてほしいと言ってくる。食事の時間が長くなるから、親の方もついつい食べさせてあげちゃう。そういう話をよく聞きました。児童精神科医の先生の本によると、赤ちゃんはおっぱいを飲むとき、栄養ももらっているけど、その時には愛情も共にもらっているといいます。自分で食べられるけど、食べさせてほしいと子どもが言うのは、そこで一緒に愛情も欲しいと思っているからだといいます。子どもばかりではありません。私たち、人と親しくなろうとするとき、一緒に食事をしようと誘います。旧交を温め合うときも、一緒に食事をするものです。共に食事をするというのは、たんに必要な栄養を取る時間ではありません。
 今日の聖書の日課で聖餐式をやめている教会の牧師は、皆頭を抱えていると思います。この日課には、聖餐式の意味、聖餐式の恵みが書かれています。
聖餐式で、パンと葡萄酒を通して、私たちはイエスさまの肉と、イエスさまの血をいただきます。イエスさまは言います。私はその人の内にいる、またその人も私の内にいる。私たちは聖餐式を通して、イエスさまと一体になります。自分が抱えていた重荷をイエスさまは共に担ってくれます。自分が抱えてきた負債は、イエスさまが共に返してくださいます。イエスさまが持っている宝は、これからはあなたのものでもあるとおっしゃってくださる。私たちは、イエスさまの命をいただきます。イエスさまは、自分のすべてを与えてくださいます。
 愛は頭で理解するだけのものではありません。体で感じるものです。子どもが親に食事を与えてもらっているとき、親の愛情を感じています。イエスさまは、イエスさまの愛を理解してほしいだけではなく、その愛を体感してほしい、感じてほしいと願い、教会に聖餐式を与えてくださいました。
 教会が聖餐式を行うのは、イエスさまがそれを命じたからです。私たちは教会で、この天から降ってきたパンを食べるよう、イエスさまが命じたのでそれを食べます。パンと葡萄酒は、イエスさまの肉と血です。イエスさまの肉と血を食べるものは、イエスさまの内におり、イエスさまもあなたの内にいる、だからイエスさまの肉、イエスさまの地を飲みなさいとイエスさまは命じ、私たちはそれに従ってイエスさまの肉と血を食べ飲みます。どんなに自分の信仰が弱くても、聖餐式は、イエスさまと自分が直接つながっていることを体感できる時間です。イエスさまの体と血が、それを食べることで、自分の肉と血になっていきます。また私たちは、自分で永遠をつくり出すことはできませんが、永遠である方があたしたちとつながってくれるおかげで、永遠とつながることができます。私たちはイエスさまの体の一部です。教会はキリストの体であり、私たちはその部分です。イエスさまは聖書を通して、あなたは私の体の一部だと語ります。
 早く聖餐式がしたいです。ただ、聖餐式がなくても、あなたがイエスさまの体とつながっていることは、変わりありません。私たちがイエスさまの内におり、イエスさまが私たちの内にいることも変わりありません。イエスさまの命を携えて、新しい一週間を始めていきましょう。