No.68

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年8月22日 聖霊降臨後第13主日

ヨハネ福音書6章56~69節 「 僅かに残るもの 」 吉田 達臣

6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
 60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。63 命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
 66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 何度か話していますが、私の信仰のきっかけになったものの一つは、ドストエフスキーであり、とりわけ、「罪と罰」という小説です。主人公の青年は、神への畏れ、神の前の正しさ、というものをどこかで気にしている自分が嫌になる。貧しくまじめに働いている両親は借金を抱えており、そのために妹は望んでいない結婚をしなければならない。世の中では、たくさん人殺しをしているナポレオンが英雄となっている。神さまなんかいない。神さまなんかを気にする自分から旅立ちたい、そんな思いで高利貸しの金貸しのおばあさんを殺すことを考える。そんなことを考えながら歩いていると教会の鐘が聞こえてくる。やっぱりこんなことを考えてはいけない、と一度は思い直しますが直後に、その金貸しのばあさんが明日一人きりになる時間があることを偶然小耳にはさんでしまう。やはりやろうともう一度思い直し、計画を実行する。計画通りではないところもあったが、警察にも逮捕されない。ある検事補に、自分が犯人であることに気付かれているようで自首を勧められるが、結局証拠が見つからず、自分はもう捕まらないことを確信する。青年は、そこで晴れやかな気分になれるかと思いきや、捕まらないことが分かったことで、なぜか恐ろしく絶望的な気持ちになる。人は罰せられれば、その罪と離れることができる。私たちも、見つかって怒られたいたずらなら、思い出になり、後で笑い話にすることもできる。でも、見つからなかった罪は、一人きりで抱えていかなければならない。償いをすることができなくなります。そして絶望的な思いになる。この青年は自殺しようと心に決めますが、その前にどういうわけか、知り合った少女に、自分の罪を打ち明ける。その少女は、あなたがこの世で一番不幸な人間だと言い、あなたみたいなダメな人間は、私がついていてあげる、そう言われる。そう言われて、青年は自殺せず、自首していき、罪を償っていく。
 私自身も、神さまなんか気にせずに、聖書の教えなんか気にせずに生きたって、もしかしたらもっと自由に生きられる気がする時があります。実際、イエスさまの教えに従って生きられているわけでもない。ならば、もうすっかり手を切って生きたほうが、自由に生きられる気もします。でも、僅かばかり、イエスさまと手を切ると、今よりも嫌な自分になり、後で後悔する気がします。
 今日の日課では、多くの弟子が、「ひどい話だ、こんな話は聞いていられない」と言って、離れ去ったと書かれています。ただ、12人の弟子は残り、イエスさまを神の聖者と信じる、そう語っていきます。ただ、今日の日課の中でも言及されていますし、今日読まなかった6章の残りのところでは、この12人の中の一人は悪魔だと言い、ユダの裏切りについて語られています。なんだか、どこまでいっても後味の悪い話が続く。私たちは、ここを読むと、自分は去っていった弟子だろうか、残った弟子だろうかと考える。こうして、礼拝に来ていますから、残った弟子だと考えもするが、それでも安泰ではないのかと、考えてしまう。残ってはいるが、信じていないもの、裏切るものがいると言われています。
 この話は、私たちは、どちらなのか、誰なのかという話ではない。聖書に対し、イエスさまの教えに対し、私たちは最初、心の大部分で、こんな話にはついて行けない、こんな話を信じて従うことなんて自分にはできない、そう感じたかもしれません。ただ、心の僅かな部分で、この教えを本当に無下に手放してよいのだろうか、そのわずかな思いでなお少し耳を傾け続けたのかもしれません。今だって、イエスさまに従うと言いながら、自分の中に常に裏切る自分がい続けている。時には本当に離れたほうが楽になる気もしながら、でもやっぱり手を放してはいかないという、僅かな思いで残り続けている。時には、本当に心離れることがありながらも、わずかに残る後悔で、もう一度イエスさまのところに戻ったりしている。このわずかな思い、僅かな後悔を、信仰と呼ぶのではないかと、聖書は教えているんです。十字架の出来事で、逃げた弟子たちは、その後なぜか同じ部屋に鍵をかけながら戻ってきている。十字架にかけろと叫んだユダヤ人が、50日後にペトロの語るイエスさまの話を聞き、多くの人が洗礼を受け、教会が始まっていく。もしかしたら、その中に今日の箇所でイエスさまのもとを離れ去っていった弟子たちもいたかもしれません。
 この世界最大の神秘は、あなたという命が生まれたことです。この世界が生まれ、命が生まれ、あなたが生まれた。なぜ生まれ、なぜ死ぬのか。その答えの鍵を握っているのが、聖書で、神と呼ぶものです。神の救い主です。その存在に触れるとき、すぐに理解できるわけはありません。でも何か、特別なものを僅かに感じとれるのかもしれません。
 イエスさまの教えを聞くとき、イエスさまと出会うとき、だれもすぐに理解できたり、すぐに信じられたりするものではありません。ただ、無視してはいけないんじゃないか、目を離してはいけないのではないか、そんな思いがわずかに残る存在です。やがて、何度裏切っても、この方から離れてはいけないという思いが、僅かばかりに残り続ける存在になっていく。それが信仰です。この不思議なものである信仰がイエスさまとあなたをつなげ、あなたを救います。小さな信仰で、イエスさまとつながっていきましょう。