No.69

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年8月29日 霊降臨後第14主日

マルコ福音書7章1~8 14~15 21~23節 「 口先だけ 」 粂井 豊
申命記4章1-2、6-9、ヤコブ1章17-27、詩編15

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
アーメン

 北海道でも、またまた緊急事態宣言がなされ、急遽、札幌中央ルーテル教会の礼拝も、会員の方々を中心に集う礼拝はお休みとなり、Webでの礼拝となりました。以前から、今日の礼拝は私が説教奉仕をすることになっていましたので、そのままに私が今日の礼拝説教奉仕をさせていただくことになりました。御言葉を取り次ぐ私とその言葉を聴かれる皆さまの上に、聖霊の力が満ち、それぞれの心に神さまの御言葉が響いて行きますように祈りながら語りたいと思います。
 なかなか収束の目処が立たない中、蔓延防止等重点宣言と緊急事態宣言とどう違うのかと、多少宣言慣れしてきているようにも思えないこの頃の状況がですが、やはり感染問題を身近に感じると、一抹の不安を覚えてしまうという私たちではないでしょうか。一時期、自粛警察という言葉が頻繁に出てきていたように、私的に取締や攻撃が行われるということが問題視されていました。自粛警察と言う言葉は少し聞かなくなってきたようにも感じますが、形を変えて、今でもさまざまな問題があるように思います。
 イエスさまの時代においても同じ問題がありました。ファリサイ派や律法学者たちが、同じような立ち方をしていたのです。彼らは、自分たちが大事にして守っている律法や生活様式が破られてしまうことに我慢ならなかったのです。その思いの中には、自分たちは、こんなに一生懸命に規則を守り、正しく歩んでいるのにという自負があり、そのことによって、他人を裁き、見下げ、高慢な立ち方になっていることに気づかないことが起こっていたのです。人は、誰しも同じような傾向を持っています。特に、熱心な人ほど、自分を正当化し、自分とは異なる歩み方をする人を断罪しやすいのです。自分が中心であり、自分のような生き方が正しく、そうでない者たちを見下すのです。イエスさまは、そのひとたちのことを、偽善者呼ばわりし、イザヤ書29章13節の言葉でもって、口先だけで神さまを敬う、その心は神さまから遠く離れている者である、と言われます。
 強烈な言葉です。読み聞いていてドキリとしないでしょうか。しないとしたら、自分はファリサイ派や律法学者ではないと思っているからではないでしようか。弟子たちは、最初、そうであったかと思います。彼らは、ファリサイ派や律法学者に批判されたと思っていましたから、イエスさまが、ファリサイ派や律法学者たちに「偽善者、口先だけの者」と言われるのを、良く言ってくださったと、ほくそ笑んで聞いていていたのではないかと想像します。自分たちにも当てはまる言葉だとは思ってもいなかったと思います。
 そこで、イエスさまは矛先を群衆や弟子たちに向けらるのです。そして、彼らに「人を汚すのは、人の中から出てくるのであって、外から人の体に入るもので、人を汚すものは何もない」と言われたのです。弟子たちは、どういうことを言われているのか、わかりませんでした。今日の日課では飛ばして読んでいますが、弟子たちがこのことについて尋ねたことが記されています。そこで、イエスさまは「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など」との言葉を並べながら、このような悪い思いが、人の心の中に起こり、他の人を傷つけてしまうと言われたのです。
 このような具体的に言われている言葉を聞いて、自分はそのような思いを抱いたことはないと言われる方は無いかと思います。中には、この言葉の一つや、二つは思ったことがあるけれど、これらの言葉の多くを抱いたことは無いと言われるかもしれません。けれど、ここでのイエスさまの思いは、この中の思い当たる言葉が一つでもあれば、それは他の思いと同じ思いにつながっているということを言われているのです。つまり、私は人に「殺意」など抱いたことは無いと思われていても、悪意を抱いたり、悪口を思い浮かべたり言ったりすること、それは殺意と同じ思いを持つことに至るということです。
 私たちは、どこかで、自分はそんな悪い人間ではないと思いたいのですが、イエスさまは、実は、私たちもファリサイ派や律法学者と何ら変わらないと指摘されているのです。口先では、神さまを敬う言葉を語っていても、その心は、神さまから離れていて、自分の思い、自分の考え、自分の生き方を良しとして、自分たちと同じような歩みをしないと思う人たちを否定し、切り捨ていく私たちのことを問題視されているのです。そのことに、気づかない私たちに、いや、気づいていても、そのことの問題性に心を向けようとしない、頑なに自分の自分の思いに留まってしまう私たちに、「私の言うことを聞いて、悟りなさい。」と言われるのです。
 イエスさまは、ファリサイ派や律法学者たちだけでなく、私たちにも辛辣な言葉を向けられながら、全ての人が、悔い改めて神さまの御側で歩んで行けるようにと、願っておられるのです。
 悔い改めるということは、何度も語っていますが、汚れた思いを抱かないで良い人間になろうと、自分で自分の心入れ替えようとすることではありません。悔い改めとは、神の子イエスさまの方に心を向け直すことです。自分の気持ち、自分の思い、自分の考えに囚われていくその心に、イエスさまを迎えいれることです。信仰を持って生きると言うことは、私たちがなにか立派に生きることでも、人からほめられるような人間になることでもないのです。信仰とは何よりも、見えないところにいます神さまに出会い、神さまの前に立ち、神さまに向かって生きることです。

人知を超える平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。 アーメン。