No.70

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年9月5日 聖霊降臨後第15主日

マルコ福音書7章24~37節 「 命と愛の有り難さ 」 吉田 達臣

7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。 7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 最近知ったことなのですが、オスマントルコの時代、政治の中枢を担っていた人の多くが、外国から来た奴隷階級の人だったそうです。一口に奴隷と言っても、地域によって、時代によって在り方が少しずつ違うようです。自分が持っているイメージに縛られてはいけないと思わされました。
 今日の福音書には、異邦人の女性が出てきます。この女性は、イエスさまの足元にひれ伏して、娘から悪霊を追い出してほしいと願う。するとイエスさまは答える。子どもを十分に食べさせなければいけない。子どものパンを取って、子犬にやるわけにはいかないと。子どもとは、イスラエルの民であり、子犬とは異邦人です。冷たい言葉にも聞こえますが、筋の通った話でもある。私が、他教派、他の教会の働きを頼まれれば、可能な限り協力したいと思うが、それでも優先順位があり、まず自分の教派、自分の教会が第一です。他の人も助けてあげたいが、まずは自分の家族と考えるのに近いかもしれません。しかし、この女性はなお願います。子どものパンを取って、子犬に下さいとは言わない。こぼれ落ちる分をもらいたいと願う。するとイエスさまは答える。原文を直訳すると、「その言葉ゆえに帰れ、もう娘の悪霊は出ていった。」と言います。新共同訳では、「それほど言うならよろしい」と訳しています。他の訳では、「その言葉が聞きたかった。」というのもあります。これを写したマタイは「あなたの信仰は立派だ」と言葉を分かりやすくしています。いずれにしても、この女性の言葉は、素晴らしい、その言葉を発した時点で、娘は癒された、そう表現されるほどの素晴らしさがあったんだと思います。
 この女性が発した。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます。」この言葉のどこがそんなに素晴らしかったのだろうと思います。色んな解説があります。これは違うだろうと思うものもあります。違うと思うものは、言葉の返しがうまかった、一休さんのようにトンチがきいてうまかったから、一本やられた、という類の説明もありますが、これは違うと思います。違うと思うものもありますが、でも、どれも捨てがたいと思う、素晴らしい説明も多い。この女性は、主よ、と語りかけています。足元にひれ伏し、僕の姿になっている。主人と僕、主と私の関係はどのような態度をとるべきでしょうか。主人と僕の、自分の勝手なイメージを一度捨てなくてはいけません。私たちは時に、遠慮がなさすぎるのかもしれません。これだけやったし、これだけ願ったのだから、少しくらいしてくれてもいいだろう、姿、言葉では見せませんが、心の中でそう思っているかもしれません。イエスさまの最初の言葉で、そこまで言われるくらいなら、やってもらわなくていい。そういう思いを持つ人もいるでしょう。故郷では敬われない、イエスさまの姿を思い出します。私たちは、自分の無力さを自覚しなければならない。弱さを隠さず、必死に願う姿をこの女性は見せてくれているのかもしれません。
 また逆に、私たちは遠慮しすぎているのかもしれません。遠慮ならまだいいのですが、諦めすぎているのかもしれません。この女性は、イエスさまに、神さまに、この世界に、もっと希望を持っている。もっと期待している。簡単に諦めすぎるな、もっと期待しろと、神さまが教えているのかもしれません。
 ある人はこんなことも言う。この世界を造り、命を造り、一人ひとりを造った父なる神にとって、愛し合うことを教えた子なる神、イエスキリストにとって、もっと生きたい、もっと生かしてあげたい、もっと共に居たい、その訴えは、命を造ってくれたことの喜び、自分を造り娘を造ってくれたことの喜び、愛し合うことの喜びを知ったものの訴え。人がわざわざイエスさまの前まで連れてきて、耳を開き舌のもつれを取ってほしいと願うのは、この人ともう一度もっと豊かな対話をしたい、そういう交わりの喜びの渇望ではないか。だからイエスさまは、とても喜ばれたのではないか。その究極の救いは、終わりの日に成し遂げられるのかもしれません。でも、時にはこの喜ばしい祈りに対し、希望のしるしとして、神さまは、時に奇跡を与えられる。聖書はそのことを教えています。
 現在はまだ、全人類的に困難な状況が続いています。でも、こんな状況だからこそ、命の有り難さ、愛し合える喜びの有り難さを改めて感じられる時になっています。得難いものが守られ、戻ってくることを謙虚に、諦めずに求め続けましょう。