No.71

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年9月12日 聖霊降臨後第16主日

マルコ福音書8章27~38節 「 イエスさまの後 」 吉田 達臣

8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

 私たちはふと気づくと、流されるように生きていることがあります。まるで時間をつぶすように生きていることがあります。ただ、私たち、心の底で、意味のある人生を送りたいと願っています。自分がこの世に命を与えられた意味を感じる日々を送りたいと願っています。生きている手ごたえを感じるような毎日を送りたいと願っています。それを祈り求めて、毎週こうしてみ言葉の前に集っています。
 今日の福音書の箇所は、ペトロの信仰告白です。ここは福音書の分水嶺、山の頂上とも言われます。場所は、フィリポ・カイサリア、イスラエルの北の端です。ここから福音書は、折り返し地点を折り返すように、南に向かい、受難のへ道、十字架のエルサレムへ向かっていきます。イエスさまは、この折り返し地点で、弟子たちに尋ねる。世間では、私のことを何者だと言っているか。弟子たちは答えます。洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だ、そう語っている人がいると答えます。イエスさまは、もう一度弟子たちに尋ねる、では、あなたがたは私のことを何者だと思っているかと。するとペトロが答えます。あなたはメシア、キリスト、救い主であると。これは正しい答えです。福音書は、イエスが本当の救い主であることを伝えるためのものです。しかし、答えはあっていても、中身が間違っているということがあります。イエスさまは、メシアではあるが、弟子たちが思い描いているようなメシアではない、そのことをここから改めて教え始めていきます。イエスさまは、弟子たちに、まだそのことをだれにも話さないように口止めします。そしてここで初めて、自分の十字架を予告します。人の子は、多くの苦しみを受け、捨てられ、殺されると。ペトロはそれを聞き、イエスさまをいさめ始めたと書かれています。すると、イエスさまはペトロを叱る。「サタン、引き下がれ。」と。ここで引き下がれというのは、原文を読むと、どこか遠くへ消え失せろ、という意味ではありません。私の後ろに回れ、という意味です。改めて考えると、ペトロが救い主をいさめる、というのはおかしな話です。救い主は、そうあるべきではない、こう有るべきだと弟子が語りだしている。しかし、ペトロが特別おかしなわけではない、これは私たち人間の姿の代表です。私たちがイエスさまより前に生まれていれば、来るべき救世主は、こんな方だと勝手にイメージする。救世主の人生の閉じ方が、捨てられ、殺されるなどと想像できた人はいないでしょう。私たちは、神さまはこうであるべき、救い主はこうであるべき、というイメージを持っている。イエスさまが十字架に架けられた罪状は、偽メシアです。人間は、このメシアが本物か、偽物か、自分で判断できると思っている。自分の思い通りでないメシアは、偽物だと思い裁く。期待通りではないメシアなら、私たちは捨てます。
 イエスさまは言う、私の後ろに下がりなさい。あなたが私を裁くな、そう言われる。あなたは私の後ろに回って、自分の十字架を背負って、私に従いなさい、と言われます。それが弟子の姿であり、それがキリスト者の姿です。
師匠と弟子、今時流行らないスタイルです。漫才師も今は弟子入りせず、養成所に行く時代です。でも、弟子というスタイルでしか伝えられないものがある。弟子は、その道がどうなるか見通しがつかなくても、信じて師の道に従います。イエスさまは言う、自分の十字架を背負いなさいと。
 自分の十字架とは何でしょう。ルターは、この箇所で言います。自分の十字架とは、愛するもののことだと。愛するものなどなければ、自分一人で、自由に生きられる。愛することって、きれいごとではなく、重荷を背負うことであります。愛するものを持たなければ、楽に生きられる。最近聞いたことがあるのは、今時の若者にとって、恋愛はコスパが悪いそうです。コスパ、コストパフォーマンス、コストの割に、リスクも大きく、リターンも少ない。でも聖書は教えます。愛するものを持ちなさい。重荷を持ちなさい。この重荷がある人生の方に、本当の命があると。イエスさまを愛し、教会を愛すれば、余計な時間も取られますし、お金もとられる。結婚し、子どもも生まれれば、自由に使えるお金も時間も無くなっていきます。何かを愛すれば、振り回され、苦労をするものです。でも、愛するものを持たない人生は、自分が生まれてきた意味、生きている意味を感じられない人生になるでしょう。あなたには、何か愛すべきものがあります。
 信じて、自分の十字架を背負い、私についてきなさいと、大きな十字架を背負ったイエスさまはエルサレムに向かわれます。イエスさまは、罪人であるあなたたちを愛し、自分の命をささげられます。自分の命を救おうとするものはかえって失うと言います。自分の思いを後回しにして歩まれるイエスさまを信じ、イエスさまの道を信じて従っていきましょう。