No.72

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年9月19日 聖霊降臨後第17主日

マルコ福音書9章30~37節 「 本当に偉い人 」 吉田 達臣

9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 9:32 弟子たちはこの言葉が分からな かったが、怖くて尋ねられなかった。
9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 幼稚園で、このコースで帰る人、ここに並んで、というと何人かの子は、一目散に駆け寄ってきて先頭を取ろうとする。抜かしただの、ずるしただのとけんかを始めることもあります。別に、一番前になったからと言って、得したり、有利になったりするわけでもないのにです。人間は不思議と、一番になろうとしたり、勝とうとしたり、どちらが上なのかとマウントを取り合ったりします。なぜなのだろうと思います。
 自分に価値があると認められたいとか、弱肉強食のような状況になっても、自分は大丈夫なのだと確信したいのか。自分が優位な立場に立てれば、自分の思いが通りやすくなるためか。人は時に、どちらが偉いのかを争って、傷つけあったり、時には、戦争をしたりします。
 今日の福音書では、イエスさまの二度目の受難の予告がされます。一回目の予告と少し違うのは、十字架に架けていくのが、長老、祭司長、律法学者と言われていたのが、人々と言い変えられています。あの偉い人たちが、イエスさまを十字架に架けるというのではなく、その人たちを含めたユダヤ人、あるいは人間全体にイエスさまは殺されると予告します。弟子たちは、どうしてそんなことになるのか分からなかったが、何か怖くて質問できなかったと言います。
 宣教の拠点になっているカファルナウムに帰りつき、ペトロの家でしょうか、家につくとイエスさまは弟子たちに、途中で何を議論していたのかと尋ねます。弟子たちは、黙っていた。途中でだれが一番偉いかと議論し合っていたからだと言います。そんな議論は恥ずかしい、という思いがあったからでしょう。
それに対しイエスさまは、「一番先になりたい人は、全ての人の後になり、全ての人に仕える人になりなさい」と言います。ここで、イエスさまは、偉くなろうとすることを否定していません。むしろ、
 +その方法を教えてくれています。
 「偉い」という言葉には、微妙に違う、二つの意味があります。辞書を引いて、一番目に出てくる意味は「社会的に地位が高い人」と出てきます。でも、2番目の意味を見ること、こう書いてあります。「人間的に立派な人」。
 聖書の教える偉い人というのは、地位の高い人とか、社会的に成功した人とか、そういう意味ではありません。本当に偉い人というのは、人に仕える人、人に譲ってあげられる人。目立たぬところでも、飢えている人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、裸の人に服を着せ、病気の時に看病し、牢にいる人を訪ね、子どもの世話をしてあげられる人。そういう人が、地位の高い人よりも、うんと偉い。地位が高いのが悪いわけではありません。地位が高くても、人に仕え、人を助けている人はいます。いやむしろ、地位の高い人は、人に仕え、自分のことを後回しにし、人の嫌がることを率先してやり、名誉は人に譲る、そういう人が周りから認められ、一目置かれ、人から盛り立てられるように高い地位についている人もいます。むしろそういう人が多いのかもしれません。いずれにしても、地位のあるなしは、本質的な問題ではありません。
本当に偉い人というのは、人のために何かをできる人です。人の見ていないところでも、神さまは見ていてくださいます。神さまばかりではないでしょう、人間同士でも、陰で人を助けたり、支えたりする人はなんとなく分かり、なんとなく尊敬され、なんとなく好かれていたりします。
 イエスさまは、神の身分でありながら、僕の姿になり、十字架を負っていきます。一番先のものが、一番後になりました。神の子が、人に仕えるものになりました。そして最終的には、多くの人から崇められる存在になりました。そんなイエスさまは、地位の高い人より、あなたの方が偉いことに気付いていてくれています。
 これからも、人に譲り、人に仕えていきましょう。神さまに認められるような、イエスさまのような、本当の意味で偉い人を尊敬し、私たちも続いていきましょう。