No.73

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年9月26日 聖霊降臨後第18主日

マルコ福音書9章38~50節 「 小さなもの 」 吉田 達臣

9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 9:44 *地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 9:46 *地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。 9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 幼稚園の先生に聞くと、ドラマの中で幼稚園の場面が出てくると、実際の幼稚園でこんなことはあり得ないという場面が出てくることがある。ストーリーにそれ程関係ないのに、気になってしょうがないと言います。私の場合は、映画や本の中で、聖書の言葉が出てくることがあります。その時に、本来こういう意味じゃないのに、と腹が立ってくることがあります。
 今日の福音書で、ヨハネという弟子が、イエスさまの弟子にもなろうとしていないのに、イエスさまの名前を勝手に使って、悪霊を追い出しているものを見たので、やめさせようとした、とイエスさまに告げます。するとイエスさまは、

 「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。

 ヨハネにとっては意外な応答だったと思います。マタイによる福音書を見ると、主よ主よ、と言い、み名によって預言し、み名によって悪霊を追い出し、み名によって奇跡をおこなったというものが出てきても、私は知らないと言うであろうと、反対のことが書かれています。どちらなのだろう、と思ってしまいます。しかし、本当の問題は、イエスさまの名を使って良いか、悪いかの問題ではなく、ヨハネ自身の心の中の問題です。9章の初めは、イエスさまの変容の出来事。イエスさまの光輝く姿を三人の弟子だけが見ることを許される。ペトロ、ヤコブ、ヨハネです。すると、この箇所の直前で、弟子の中でだれが偉いかと議論していたと言います。そして、今日の箇所。ヨハネの心の中には、自分は本流の弟子であり、しかも高弟である、そんな思いが芽生えていた。ファリサイ派のように、自分は別格で、あとは下の人、ダメな人である、そういう思いが芽生え始めていた。ヨハネだけではない、自分は本物、自分はよく知っている、自分はよく分かっている。そんな思いを私たちも持つことがあります。その時に起こることは、小さなものを躓かせる、ということと、争いを生み出すということです。今は、自分は正しいと思っている人が増えて、批判や争いの多い、生きにくい世の中になっています。
 今日の日課の終わりの方に、人は皆、火によって塩味をつけられる、と書かれています。ヨハネは自分を本物の弟子、イエスさまに従う思いは強い、そう思っていました。しかし、ヨハネは十字架の出来事で、他の弟子達と同様、イエスさまのもとから逃げます。自分の信仰の小ささ、自分の小ささを見せられます。
 皆がそうだとは言いませんが私など、子どもの頃、若い頃は、根拠のない自信があった。今思えば、普通に生きているだけで、体は成長し、力は増し、出来ることが増えていく。このままいけば、何だってできていくのではないかと思っていました。でもある時、人は必ず自分の限界を見せられる。思ったより大したことの無い自分の現実を見せられます。自分が想像していた以上に、小さなものだということが思い知らされていく。それでも素直に認められず、随分葛藤しながら、少しずつ、自分の小ささを受け入れていく。聖書から、小さくても大丈夫、小さいからこそ愛され、小さいからこそ守られる、そのことを言い聞かせられながら、抵抗したり、葛藤したりしながら、なんとか受け入れていく。
 でも、ある牧師は、この箇所で、自分の弱さを認め、受け入れられるようになるってことは、それ以前よりずいぶんと強くなったのだと言います。自分の小ささを認めるということは、大きく成長できたのだと言います。少なくとも、信仰的には、大きく成長した。主はつよければ、我弱くとも、恐れはあらじ。自分の弱さ、小ささを受け入れられると、人の弱さ、人の小ささを自分のこととして、受け入れられるようになります。どっちが強いかと、争うこともなくなります。
 ただ、七転八倒しながら、自分の人生の中で、自分の弱さ、自分の小ささを苦労して受け入れてきたのに、人はちょっとしたことで、すぐ傲慢になります。だからこそ、イエスさまはかなり強い言葉で、小さなものを躓かせることは、大きな罪だと教えます。
 イエスさまは最後に言います。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。み言葉の力によって、自分の傲慢さを清めていきたいと思います。
 偉ぶったり、人をバカにしたりせず、愛された小さなものとして、新しい一週間を平和に過ごしていきましょう。