No.74

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年10月3日 聖霊降臨後第19主日

マルコ福音書10章2~16節 「 この私 」 吉田 達臣

10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。 10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。 10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。 10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 10:10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。 10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。 10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 「親ガチャ」って言葉を聞いたことがあるでしょうか。若い人たちが、自分に当たった親の運の良さ悪さを話題にするとき使うらしいんですけど、まあ、おじさんとして、親は苦労しながら育ててるのにそんな言い方してって、言いたい気持ちもあるんですけど、でも、まあ、若い頃、軽い冗談として、そういう言葉を使うのは少し分かります。自分も若い頃、あそこの家の子どもだったら良かったのになあ、と思ったことは何度かあります。ただ、それを言うなら、「親ガチャ」より、親ガチャも含めて、「自分ガチャ」って考えてみると、世界が違って見えてきます。物心ついた時、気づけばこの自分で、この親で、この国で、この時代で、運動神経や頭の良さ、体質気質はこんな感じ。決して自分で選びとったわけではなく、私たちは、たまたま与えられたこの自分で生きていかなければなりません。ちょっと気に入らないので、課金して、ガチャ引き直すわけにはいきません。もっとこうであればよかったのに、ああであればよかったのに。大谷翔平の体くれていれば、でも、脳が自分のままなら、すぐ怠けるか、とか思いながら、でも誰もがみんな、選んではいないこの自分を引き受けて、悩んだり、喜んだりしながら何とか生きています。
 今日の箇所は、結婚離婚の話と、子どもの話です。一口に、結婚離婚と言っても、時代によって結婚観は、かなり違います。データは、戦後からしかないのですが、戦後は圧倒的にお見合い結婚が多かった。恋愛結婚が逆転するのは、1960年代の後半です。以前は、結婚と家、家と仕事が深く結びついていました。企業に就職する人の方が少なく、農家や八百屋、肉屋、本屋、工務店、酒屋、呉服屋、家業を持って生きるのが普通だった。時代をさかのぼるほど、そうでしょう。だから結婚って、就職に近い意味もありました。機械や道具も乏しい時代は、仕事に体力がかなり必要でした。ですから、労働は男性が中心の時代が長かった。つい最近までそうでした。
 今日の福音書では、ファリサイ派の人がイエスさまに尋ねます、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。この時代は基本的に、離婚を決める権利があったのは、夫のみだと言われています。ファリサイ派の人は、「モーセは離縁状を書いたら離縁することを許している」と語っています。申命記24章に、妻に何か恥ずべきことを見出し、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて、手渡し、家を去らせる、と書かれています。妻から夫の規定はありません。妻に恥ずべきことがあり、というのも具体的に何かが書かれていないので、解釈する人によっては、妻が鍋を焦がしたら離婚できる、と言ったラビもいたそうです。ただ、ある神学者によると、この24章の規定は、女性が再婚できるよう離婚をはっきりさせるためのもので、離縁状を書いたら離縁できる、というより、離縁状を書かないと、離縁できない、という規定だそうです。そうでないと、まるで物のように、気に入ったら拾い、気に入らなくなったら捨て、やっぱりこっちがよかったと言って拾う、そんな振る舞いをする人がいて、それを禁じる規定だと言います。これは結婚離婚だけではありません。聖書が教えようとしているのは、人をもののように、道具のように考え、扱ってはいけない、ということです。
 私たちは、心の中で、時々つぶやく、この人は役に立つ、この人は使えない、この人はプラスになる、この人は得になる、損になる。聖書は教えます。この人は人間です。人格を持った人間です。決して自分で選んだわけではない、自分の環境、自分が持ち合わせたもので、悩んだり、巻き込まれたり、時には悪い選択肢しかない中、ましなものを選んだりして、私たちは必死で自分をやっています。周りを見れば、自分より恵まれていて、悩みなどないかのように見える人もいるでしょう。明らかに、自分よりかなり過酷な条件で、うまくいかないながら、必死で生きている人もいるでしょう。一人ひとり人生があり、一人ひとり人格があります。小さな子どもだって、泣きながら、子どもなりの不安や悩みを抱えながら生きています。その意味では私たちは同士です。ガチャがほんの少し違えば、自分はこの人の人生だったかもしれません。
 人をもののように値踏みしたり、扱ったりするのではなく、一人ひとりの人生、一人ひとりの人格を大事にしていきましょう。イエスさまは、男性も、女性も、子どもも、罪人も、一人ひとりを大事にされます。最後の一人まで救おうとされます。一人ひとりの人生に祝福を与えられます。イエスさまの祝福を受けて、新しい一週間を始めていきましょう。