No.75

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年10月10日 聖霊降臨後第20主日

マルコ福音書10章17~31節 「 主に委ねる 」 吉田 達臣

10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。 10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。 10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。 10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 今日の福音書の箇所は、新共同訳聖書には、金持ちの男という小見出しがついています。富める青年と覚えている人もいるかもしれません。他の福音書を読むと、議員であったと書かれています。読み進んでいくと、子どもの頃から律法も守ってきたと言います。完璧な人のようです。しかし、この青年はイエスさまに向かってとても印象的な尋ね方をします。

 「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

 お金も持っている、地位もある、正しく生きてきた。でも、そのようなものは、死を前にしたとき、あまり役に立たない、そんな思いがあったのかもしれません。お金持ちであっても、どんだけ地位があっても、死に対して、命に対して、多少延命したり、僅かに時間を先延ばしにすることができたとしても、私たち人間は基本的には無力です。イエスさまは、青年に答えます。十戒を中心とする、律法を守りなさい。すると青年は答えます。そういうことは子どもの頃から守ってきた。この青年の言葉には、多少私たちは驚きます。こんなこと言い切れる人がいるのだろうかと。それは、私たちが、イエスさまに、あらかじめ、律法の本質を教えられているからです。律法は、たんにやっちゃいけない、と言われたことを守ればいいというものではなく、その本質は、自分を愛するように、隣人を愛するということ。禁止を守ることではなく、人を大事にするということです。イエスさまは青年に言います。あなたには欠けているものが一つある。自分の持っているものを、持っていない人に施しなさい。そして私についてきなさい。そう語ります。するとこの青年は、気を落とし、悲しみながら立ち去ったと言います。たくさん財産を持っていたので、それを手放すことが容易でなかったからだと言います。
 永遠の命を受け継ぐためには、全財産を捨てなければいけない、という話でしょうか。それならば、修道院に入るしかない気がします。しかし、ルターは修道院に入りながら、誰よりも修道しながら、平安は得られなかったと言います。この青年のように、完璧でありながら、足りなさを感じていたと言います。今日の箇所でも、最後のところで、

 はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。

 畑も百倍受けると書かれています。財産を持つ持たないの話ではありません。弟子たちは言います。私たちは全てを捨ててイエスさまに従ってきたと言います。弟子たちはもう大丈夫なのでしょうか。今日の箇所は、マルコ10章ですが、11章はエルサレム入城の記事になります。もう受難週、イエスさまの十字架の出来事が迫っています。弟子たちは、十字架の時に、イエスさまに従いきれない、そこから逃げるという経験をします。すべてを捨てて従ってきた人が、最後まで従いきれない、という経験が与えられます。今日の箇所の直前の箇所は、イエスさまが子どもを抱き上げて、子どものようにならなければ、神の国に入ることはできないと語る場面です。子どもにはできるが、この青年にはできない、弟子たちにもできない、私たちもできない。何が欠けているのでしょう。
 今日の箇所で、原文を読むと、とても印象に残るところがあります。イエスさまがこの青年に、あなたにかけているものが一つある。そう語る直前に、イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた、と書かれています。原文を直訳すると、「イエスは彼を見つめた、イエスは彼を愛した、イエスは彼に言われた」そういう言葉です。イエスさまが、特定の人を愛した、と書かれているのはこの箇所だけだそうです。この青年は、恐らく、とてもいいところまで来ている。あと一歩のところまで来ている。先のものが後になり、後のものが先になる、と書かれていますが、出来る人ほどできなくて、出来ない人ほどできることがあります。子どもはできるが、この青年にはできないことです。イエスさまが、この青年を見つめたと書かれています。ただ、見る、という言葉とは違う言葉で、見つめる、強く見る、という言葉です。この同じ単語が、印象的な場面でも使われています。ルカによる福音書で、ペトロが三度裏切りの言葉を吐いた時、イエスさまがペトロを見つめていたと書かれています。それでペトロはイエスさまの予告を思い出し、外に出て激しく泣いた、と書かれています。カトリックの信仰を持っている、「甘えの構造」という本を書いた土居健郎先生が、その箇所で、ペトロはここで泣けて良かったと言います。ユダは泣けなかった、それで自殺した。ペトロはここで泣けた。泣いたことの意味は、ここでペトロはイエスさまに甘えられたのだと言います。最後のところで、イエスさまに無力な人間として、甘えることができたのだと言います。
 子どもにできて、この青年にできなかったこと。よくできる人ほど、よく頑張る人ほどできないことがある。それは、出来ない者として、神さまに甘えること、全面的に神さまに頼ることです。私たちは富んでいるわけでも、地位があるわけでもない。でも、あなたは無理をする。頑張りすぎる。でも、人生の中で、何度か、大きくつまずき、挫折し、自分の無力さを味わった。そこで、神さまに頼ることを知りました。でも、あなたはいまだに自分で頑張る、無理をする。イエスさまは、今日改めて語り掛けます。最後には、必ず私を頼りなさい。最後は必ず、神さまに甘えなさい。幼子のように甘えなさい。人にはできないが、神にはできる、そういうことがある。最後には、必ず神に頼りなさい。そう語りかけています。
 修道院を出たルターは語ります。私たちの行いではない。神さまの恵みのみだと。主に委ねて、新しい一週間を始めましょう。